『BEASTARS』から見る「ケモノ」と私たちのかかわりについて


◆はじめに

読者のみなさんは「ケモノ」という言葉をご存知だろうか。明確な定義は定まっていないが、「ケモノ」とは簡単に言えば「動物をモデルとして、そこに人間の特徴を付け加えたキャラクター」のことを指す言葉だ。

ケモノが登場する物語作品は、多岐にわたって存在する。古いもので言えば手塚治虫の『ジャングル大帝』や『鳥人大系』、最近のもので言えばディズニーの『ズートピア』などがまず挙げられるだろう。

ケモノたちの存在する世界観で紡がれるこれらの物語には、人間同士の間で繰り広げられる物語にはない固有の魅力がある。それは、決してキャラクターのビジュアルという表面的な差異のみに由来するものではない。私たちとは異なった身体を持つ存在が、ある時には私たちと似たように、またある時には私たちと全く違う仕方で、自らの身体とかかわりながら生きてゆくその様子に、私たちは不思議な魅力を感じる。

実際、上に挙げた作品だけ見ても、手塚治虫作品の人気はわざわざ述べるまでもないほど明らかだし、『ズートピア』も全世界での興行収入が10億ドルを突破するほどの人気を博している。こうした作品群に私たちが惹かれていること自体は、火を見るよりも明らかなことだ。

しかし、いったいなぜ私たちはこうした物語に惹かれるのだろうか。この不思議な魅力の正体は、まだ十分に解き明かされてはいない。そこで、筆者は今回『BEASTARS』というマンガについて語ることを通して、この魅力の正体を少しでも明らかにし、こうした作品群の魅力がもっと多くの人に深く理解される手助けをしたいと思っている。

さらに言えば、実はケモノの持つ魅力を解き明かすことは、ケモノに触れた経験の有無にかかわらず、私たちみなに通底する普遍性を照らし出すことにもなる。それは、ケモノに限らず私たちが異なる存在と対峙する時の態度そのものや、その面白さにまで通じるものだからだ。今回の記事では、ケモノの魅力を語ることを通し、私たち自身の、人間とは異なるものへの態度がいかなるものであるかということについても肉薄していきたいと思っている。

◆ケモノの魅力とは何か

さて、筆者の見立てでは、ケモノキャラクターが繰り広げる物語の面白さには、大きく分けて二種類のものがある。少し抽象的になってしまうが、実際に作品について話していく前に、それら二つの面白さについて整理しておこうと思う。

一つ目は、物語中でのキャラクターたちの生活に通底する問題が、私たち人間の持つある側面と地続きになっており、結果としてその物語中において、私たちの生活の一側面や私たちの持つ可能性が、ある種の戯画化を経て特徴的にあぶり出されているケース。このケースは、例えば読者が登場キャラクターのふるまいに自分と近しいものを見出して共感することが該当する。

二つ目は、物語中のキャラクターたちの生活が、私たちのあらゆる側面に対して地続きとはなっておらず、理解不能な完全なる他者としてあるものの、しかしながらその他者性、つまりは「分からない」ということそれ自体でもって私たちを揺り動かすケース。こちらは、例えば共感不能なキャラクターのふるまいに対面した時の恐ろしさであったり、憧れであったりする。

これら二通りの魅力は、作品ごとにくっきりと分かたれるものではない。むしろ、これらは一つの作品内はおろか、個々のキャラクターの中ですらも、それぞれに共存している。つまり、私たちはある場面でケモノキャラクターの持つ、私たちへと通じる側面を見つけて親しみを覚える一方、また別の場面ではそのキャラクターの持つ私たちの理解が及ばない側面について、憧れにも似た魅力を感じるのだ。

以上の仮説を踏まえて、この記事では読者のみなさんと一緒に、ケモノキャラクターが多数登場するとある作品を読み直すことを通して、ケモノキャラクターが登場する作品であるからこその魅力を、上に挙げた二つの要素間の往復を意識しつつ、その上で現在もしくは未来の私たち自身に対して、それがどのような仕方で、どんな側面について私たちを刺激し、新たな視座を与えてくるのか、という視点から解き明かしてみようと思う。

◆『BEASTARS』について

前置きが長くなってしまった。さて、この記事で取り上げたいのは、2018年マンガ大賞の大賞を受賞して最近話題となっている、2016年から「週刊少年チャンピオン」にて連載中のマンガ『BEASTARS』である。

この作品は、高度な知性を持つ様々な種類の動物たち(※1)が共に過ごす多様な社会を舞台とし、エリート学校の中でも数少ない肉食・草食動物の共学校「チェリートン学園」に所属する青年たちの生活を描いた群像劇だ。

ところで、具体的に作品の内部を見ていく前に断っておきたいのだが、この作品は非常に濃密で入り組んだ作品であり、筆者としてもこの作品の全てをこの記事だけで語り尽くすことができるとは到底思えないのが正直なところだ。というわけで、ひとまず今回の記事では、先に挙げた二つの面白さを意識しつつ、「私たちのある特徴が戯画的に示される場合」と、「私たちが今持っている特徴を超え出て、私たち自身の可能性が示される場合」という二つのケースについて、主人公である「レゴシ」とその親友である「ジャック」についてそれぞれ見ていくことから考えてみようと思う。

◆レゴシについて:本能と恋心

『BEASTARS』の物語は、主人公のレゴシが所属する演劇部で、メンバーのアルパカが何者かに食殺される事件が起きた場面から動き出す。こうした食殺事件は『BEASTARS』の世界だと珍しくない事件であるものの、それが学校の中で起きたことで、草食と肉食の生徒間に軋轢が生じてしまう。

『BEASTARS』Vol.1表紙。手を噛むレゴシが描かれている。

主人公であるレゴシは、肉食の中でも比較的力が強くて体も大きいハイイロオオカミである。発達した牙や爪を持ち、身体的には肉食獣の極北とも言える彼だが、性格は内向的で、基本的に暴力もあまり好まない。しかしそんな彼も、夜中に出会った一匹のウサギ・ハルを襲って食い殺しかけたことで、自身の身体が持つ本能と嫌が応にも向き合わざるをえなくなる。

しかし、その後たった一人で園芸部として活動するハルとのやりとりを通し、レゴシはハルに惹かれると同時に、ハルへの感情がその人(獣)柄への好意なのか、あるいは単にオオカミである自分がウサギであるハルに対して抱く捕食欲でしかないのか、という混乱に陥ってしまうことになる。

さて、筆者は先程、人ではないものたちが紡ぐ物語の持つ面白さの一つに「その存在が繰り広げる物語に通底する問題が、私たち人間の持つある側面と地続きになって」いる点を挙げた。お気付きの方もいらっしゃるかもしれないが、こうしたレゴシの本能と恋心の間で混乱するあり方こそ、まさに上で説明したような面白さが表れているものの具体例である。

主に思春期の男性に見られることだが、第二次性徴期を経て、女性に対して好意を抱いた時、その好意がその女性の人格へのプラトニックな恋い焦がれによるものなのか、あるいは自身の性欲がその女性に対して発露しているだけなのか、という混乱は起きがちだ(大抵のヘテロ男性は経験があるのではないだろうか)。つまり、レゴシのハルに抱く好意における「食欲と恋心」という本能と好意の混乱が、私たちにおける性欲と恋心の混乱と類似しているということだ。

こうした類似は他にも見られる。例えばレゴシたちのようなイヌ科の動物たちは、嬉しさや悲しさといった気分がすぐ尻尾の動きに出てしまう。この場合であれば、私たちはレゴシたちイヌ科を「表情に気分がすぐ出てしまう人」と類似したキャラクターたちとして捉える。そして、これらの類似とそれに対する共感を通じて、私たちはレゴシの物語を、私たちに向けて問いを投げかけてくる物語として読むことができる。

本能と好意の間で混乱し、自身の本能を醜いものだとして思い悩むレゴシは、自身の本能を抑えつつ、ハルをはじめとした草食動物を肉食動物から守っていくため、草食動物の肉を食べて食肉がやめられなくなってしまった肉食動物の捕獲に奔走していく。

こうした描写から、人間である私たち読者は、性欲となんとなく折り合いを付けた大人(あるいは自分)に対する、どうしても自分の性欲を認められない子供(あるいは若かった頃の自分)の反発や葛藤を読み取り、レゴシのことを「『なんとなく』で折り合いを付けず、プラトニックな愛を貫こうとしている人」というようなイメージで捉え、そうしたイメージを元に自分の「なんとなく」付けた折り合いをもう一度振り返る、ということだ(※2)

このように、レゴシは肉食獣の特徴的な牙や爪を備えたその身体でもって、私たちにとって異質な存在として表れてくる一方、その身体とかかわりながら生きる上で生じる本能と恋心の葛藤という悩みについては、私たちにとって近しいものだ。レゴシの持つ肉食獣の身体は、私たちに異質な感触を常に与えながらも、その中でこそ逆に私たちに近しい彼の悩みが際立って表れ、そしてその悩みは私たち自身へと投げ返されてくる。

◆ジャックについて:優生と平等

ここまではレゴシについて、彼の身体の異質さと、他方で彼が私たちと地続きになっている面の両方について見てきた。次に、レゴシの親友であるラブラドールレトリバーのジャックについて見ていこう。

ジャックに焦点が当たるエピソードは、単行本第6巻収録の49話「古代を飛び越せ子どもたち」だ。このエピソードは、当時7歳のジャックが学校でレゴシと出会った時の顛末が描かれた、いわゆる過去編である。

この話の冒頭では、ジャックたちラブラドールレトリバーをはじめとしたイヌという動物が、ほぼ100年前に肉食獣と草食獣との間に起こった大規模な戦争をきっかけに、「もっと闘争心を抑えつつも知能を発達させた動物を作ろう」という動きによってオオカミをベースに開発された改良種であることが語られる。

改良種であり、他の「オリジナル」であるーつまり人工的(獣工的?)に作られた種ではないー動物たちよりも知能が高いジャックは、学校でも優秀な成績を修めていたが、その出自のためクラスメイトたちからは「努力しなくても改良種だから勝手に頭が良くなる」存在として疎まれていた。しかし、自身がそもそも品種改良を経て生まれた、言ってしまえば「優生」の存在であるがゆえに、周囲と同じ権利を行使し、周囲の疎みやいじめを跳ね除けることはジャックにとって禁忌となっていた。ジャックは、優生と引き換えに自身の権利を自ら制限することで、周囲と対等であろうとしたのである。

また、オオカミであるレゴシとの出会いによって、ジャック自身も自分が元からいた動物ではない「つくりもの」であることへの劣等感を明確に自覚し始める。といっても、争いを好まない性格であるレゴシもまた、闘争心をなくすようオオカミから改良された存在であるラブラドールレトリバーのジャックに羨ましさを感じ、二匹は互いに互いの生まれを羨ましがるようになる。

以上のようにジャックは、優生的な存在として生まれた自分と、優生である自分が強者としてふるまうことのリスク、そしてその境遇ゆえにクラスメイトからのいじめに思い悩むキャラクターだ。しかし、こうしたジャックのあり方に、直接私たち人間と地続きな側面を見出すことは難しい。それもそのはずで、私たちはどの種族が明確に優生であるか決まっている世界には生きていないし、改良された人類だってまだ創造されるには至っていないのだから。

だが、それでも私たちはジャックの生活の断片、例えばある集団の中でマジョリティに疎まれつつ自分を抑えて暮らさなければならない苦痛や、自分にはない才能を持っている動物を羨ましく思う気持ちに共感を覚える。この共感を通じ、「もし優生である生物と共存する世界があったら」という私たちの未来の可能性について、ジャックのエピソードは私たちに様々な示唆を投げかけてくる。このように、ケモノたちは現在の私たちを戯画化した存在として私たちに自分を振り返させるだけにとどまらず、私たちの未来の可能性にまでその示唆の射程を持ちうるのだ。

◆ケモノと人:緊張と緩和の往復

さて、ここまでは『BEASTARS』に登場する二匹のキャラクターに注目しながら、彼らの生き様を私たちがどうやって受け止め、またそれらが私たちにどんな視線を向け返してくるか、ということについて話した。最後に、ケモノキャラクターが登場する物語と、それを読む私たちの関係について、『BEASTARS』を通じて見えてくることを話して締め括ることにしたい。

繰り返しになってしまうが、ケモノキャラクターの特徴は、何と言ってもまず私たちとの身体の違いにある。ここまで見てきた二つの例でも、一方は肉食獣の身体を、他方は人工の改良種としての身体を持ち、それぞれにその身体とのかかわりが彼らの生き様に直結しており、そこに私たちは面白さを見出した。

彼ら二匹に限らず『BEASTARS』では、あらゆるキャラクターが各々の持つ身体的特徴が(時には過剰なほどに)誇張して描かれる。それは、オオカミの発達した顎と牙であり、アカシカの華奢な腕であり、クマの筋肉質な胴体であり、ウサギの無防備な柔らかさである。こうした誇張が描き出すものは、彼らの身体とその生き様のかかわりだ。彼らは時としてそれに振り回されながらも、それを気遣い、それに対処し、常に各々の身体とかかわりつつ生きている。

誇張された身体の描写を通し、私たちは、私たちとは異なる身体とかかわりあう、私たちとは違う彼らの生き様を常に見せつけられる。そうした経験の中で出会われるのは、ある側面では異質なものでありつつも、また別の側面では私たちと地続きになっているような、私たちとの類似性と他者性を常に往復運動し続ける存在としてのケモノキャラクターだ。この往復の中で、私たちは彼らの異質な生活それ自体に憧れにも似た魅力を感じつつ、他方で私たちと類似した彼らの性質に親しみを覚える。

こうした往復運動は、私たち人間同士の間でも日々行われているものではある。例えば異文化交流をする時に、外国人の異質さに魅了されたり畏れをなしたり、逆に彼らの習慣を私たち自身の日常へと翻訳して親しみを覚えたりする。そんな緊張と緩和の連続は、ケモノキャラクターたちの生を眺める時に私たちが行う往復と同じものだ。つまり、ケモノに対峙する時、私たちは私たちと異なる存在に対峙する時の私たちのあり方を顕在化させているのだ。

そして、こうした運動を私たちが楽しむことができるという事実は、私たちの他者との交流を楽しむことのできるポテンシャルを差し示すものである。つまり、ケモノたちに私たちが感じる魅力は、翻って私たちの他者への開かれ具合を照らし出すものでもあるということだ。

『BEASTARS』に登場するケモノたちと私たちとの間におけるこの往復運動は、私たちのそれとはかけ離れた彼らの身体を常に見せつけられつつも、その中にある私たちに近しい性質を見つけ出すという、極端とも言える他者性と類似性との間に成り立つ極度の緊張と緩和に支えられている。そしてこの緊張によって、読者である私たちはその類似性と他者性の双方について敏感であり続けることを余儀なくされる。ここで獲得される敏感さが全ての基盤となり、私たちはケモノと私たち自身の身体性とを相対化したり、あるいは私たちが持ちうる未来の可能性を、ケモノを通じて細やかに読み取ったりするのである。

ケモノたちは、私たちの異なる存在への敏感さを研ぎ澄まさせる存在だ。この点において、彼らが私たちを取り巻く異質なものたちの中でも一際強烈な魅力を放つものであることは間違いないだろう。

【註釈】
(※1)
顔と手を除き、骨格はみな人間っぽい形をしているので、正確には「動物」ではなく「獣人」と呼ぶべきところだろう。

(※2)
ただし、ここで話したような、ケモノキャラクターを「私たちと地続きのものとして」捉える読解には、同時に落とし穴もある。レゴシの例で言えば、読者は肉食獣の食肉欲と私たちの性欲を、いずれも「本能」に基づいた抗いがたい欲望であるとして並列しつつ読むことになるわけだが、しかしてこれら二つの欲望は同じものではない。少なくとも、その欲望の違いは大きいと言っていいだろう。食肉欲は他の主体を殺して自身の栄養とする欲望である一方、性欲は相手を殺すことが目的なのではない。また、食肉欲は欲望を持った主体の欲望を満たすのみに終わるものの、性欲は生殖という行為、その行為の子をなすという性質と切り離しては語り切ることができないものだ。私たちとは違う存在のふるまいを私たちの戯画化として捉えるあり方には、私たち自身に向け返す視点が一面的なものになりかねないリスクが常に伴うことも、また忘れてはならないだろう。

[記事作成者:穂高周]