藁にも頼りたくなるとき:「幽霊」はどこにいったのか【「数字」から垣間見る過去(第3回)】


前回:「世間」はどこにある?:その見方、教えます 【「数字」から垣間見る過去(第2回)】

◆「常識」なくしては、生きられない

第1回第2回と、このシリーズでは「常識」に横やりを入れるような記事を書いてきた。とは言うものの、筆者は「常識なんてぶっ壊してしまえ」と言いたいわけではない。むしろ、常識なくしては生きられないのが人間という生き物だと思っている。何故なら、あらゆる知識には究極的な根拠というものが欠けているからだ。

そうした究極的な根拠の不在については、二十世紀の様々な学問が取り上げてきた(そうした基礎付け主義の敗北の歴史については、おそらく当会の代表である山下泰春の連載で取り上げられるだろう……多分)。このような究極的な根拠の不在により逆に浮かび上がってくるのは、私たちは真に頼れる基礎のないまま、浅い歴史を通して作り上げた小さな知識の体系にすがって生きているのだという心細さではないだろうか。

この地球を太陽から切り離すようなことを何かおれたちはやったのか? 地球は今どっちへ動いているのだ? おれたちはどっちへ動いているのだ? あらゆる太陽から離れ去っていくのか? おれたちは絶えず突き進んでるのではないか? それも後方へなのか、前方へなのか、四方八方へなのか? 上方と下方がまだあるのか? おれたちは無限の虚無の中を彷徨するように、さ迷ってゆくのではないか?(ニーチェ『悦ばしき知識』一二五番)

ニーチェ(1844~1900)が例の有名な神の死を告げた狂人に語らせたり、あるいは当時はとても一流とは看做されなかった作家のH.P.ラヴクラフト(1890~1937)

世界で最も慈悲深いことは、私が思うに、人間の心にはその内にあるもののすべてを関連付ける能力が欠けているということだ。私たちは、無限の闇の只中に浮かぶ無知の島に住んでいるが、それは私たちが遠くへと旅をするべきだということを意味してはいないのだ(ラヴクラフト『クトゥルフの呼び声』)

と書いて表したような虚無の中に、私たちは生きているのだ。

◆身近にある虚無は、クローズドな場所へ

shinrei
「心霊番組」でGoogle検索をかけようとすると、サジェストに「減った」が出てくる

そうした虚無に触れるためには、特別な学識も特別な装置も必要がない。むしろ、それは個人的に、かつては人々のすぐ隣にあったものであるように思われる。少なくとも筆者が幼少期を過ごした1990年代、それは筆者の極めて身近にあるように感じられた。学校のトイレや無人の図書室、黄昏時の帰路にある草むらなど、そうした場所にそれらはあったはずだ。

ここで私が語っているのは「幽霊」である。この幽霊という観念は、ある意味では大衆メディアが作り上げた安直な幻想の混成物である一方で、ある意味では古式ゆかしい伝統的なものでもある。

思うに、1990年代の日本には、オウム真理教に限らず、世紀末ムードの中で様々なオカルトが溢れていた。だが今日、心霊番組を地上波で見る機会はめっきり減ってしまった。実際、「心霊番組」という言葉でGoogle検索をしようとしたら、サジェストにすぐ「減った」という言葉が出てきたくらいだ。その原因について調べると、「やらせ疑惑」や「クレーム」への対処の必要性が増えてきたからだという説明をしている記事が出てきた。

“恐怖コンテンツ”の勢力図に異変!? 「怪談番組」がCSなどで重宝されるワケ

しかし、この記事では同時に、地上波での心霊番組の衰退とは対照的に、実はCSやネットでは出演者が怖い話を話すという「怪談モノ」は、クローズドな場であるがゆえにクレームや炎上を避けられ、しかも「話すだけ」なので制作予算が安く抑えられるため、コンテンツとして大きく広がってきているのだという話もされている。

なるほど、クローズドな空間で話をするだけならば、炎上などのリスクを抑えられ、しかも低予算で番組作りができる。しかし、クローズドな場で怪談モノが広まってきている原因は、本当にそれだけなのだろうか?

◆クローズドな場所の持つ力

読者の中には、大人になった今でも幽霊を怖いと感じる人がいるかもしれない。あるいは、幽霊でなくとも、何者かが不意に襲ってこないかいつもより不安に感じたことはないだろうか。またそれ以外にも、何か強力な神霊の意図のようなものを感じたことはないだろうか。

少なくとも筆者は、人里外れた場所を一人で夜に歩いているときに「幽霊が出てきたらどうしよう」と思ったり、誰もいない夜道を歩いているときには「誰かが草むらから飛び出てきたらどうしよう」と思ったり、あるいは思わぬ不運から体調を崩してしまったときは「これは何かの罰なんだろうか……」と疑ってしまったりする。普段はオカルト的な存在を全く信じていないつもりなのだが、心細い状況、周囲から見捨てられたような状況に陥ると、比較的簡単にそうした存在がいるような気がしてきてしまう。

ここでもし仮に「周囲から得られる情報が少なくなれば、人は普段信じることができている常識に対する信頼が揺らぎ、そうした常識では認められないものの存在を考慮するようになる」とすればどうだろうか。つまり、周囲からの情報が少なければ少ないほど、人は常識的でない存在=幽霊の存在を予感するようになるというわけだ。これは言い換えれば、常識への信頼度合いは、その時々で受け取る情報量の関数として表せるということである。

このように考えると、クローズドな場所と怪談の相性の良さがもう一つ見えてくる。つまり、クローズドな場所は、その閉鎖性ゆえに外部からの情報が乏しい。しかし、その乏しさが幽霊や心霊などといった、その対象についての情報が少ないこと、未知であることによって成立している恐怖をより存在させやすくするのではないだろうか。

筆者は脳科学や心理学の専門家でもなければ、これらの問題について詳しく調べたわけでもないので、ここで一定の結論を出すことは差し控える。だが、脳の中には「トップダウン型注意」と「ボトムアップ型注意」(※1)のような相互に影響する様々な処理が存在しており、そうした様々な処理のバランスが崩れることにより、容易に心霊現象のような体験が生み出せるということが分かってきている(※2)

また、こうした「バランス」には、薬物や精神疾患による脳内の情報伝達能力の変化など(※3)だけではなく、情報量も関わってくる。だとすれば、それは受け取る情報量、つまりはコミュニケーションによりやり取りされる情報量も、心霊現象を感じられるか否かに関わってくるという可能性もあるのではないだろうか。リソースの問題もあってじっくりサーヴェイできなかったため、誰か調べてくれるとありがたい(いつもの)。

◆コミュニケーション量の変化

ところで、総務省によれば、世界でやり取りされるデータの量(=「トラフィック」)は2011年には月間31エクサバイト程度だったのだが、2020年には月間194エクサバイトになると予想されている(※4)。つまり、この世界のデータ量はテン年代だけで約6倍程度増えると見込まれているわけだ。なお、「エクサ」とは「メガ」や「ギガ」と同じく数字の単位であり、10億の10億倍のこと、言い方を変えればギガのギガ倍を意味する。

なかなかイメージしにくいかもしれないが、このことから筆者が言いたいのは、現在私たちがそれだけ多くの情報に囲まれて生きているということだ。そしてこれは、それだけ多くの他者が作り出した物事を受け取れるようになっているということであり、霊的なものや本稿の冒頭で述べた「虚無」の発現を支えるクローズドな場所が成立しにくくなっているということでもある。

こうした情報に溢れた状況の中で、私たちの身の回りの「虚無」もまた姿を変えていくだろう。安心が拡大し、話相手が常に隣に感じられるようになるに連れて、「幽霊」は私たちの後景に退いていくことになるのかもしれない。

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【注釈】
(※1)
「視覚性トップダウン型注意とボトムアップ型注意」(脳科学辞典)
https://bsd.neuroinf.jp/wiki/視覚性トップダウン型注意とボトムアップ型注意

(※2)
「幽霊は脳が作り上げている。人工的に幽霊をつくり出す実験に成功(スイス研究)」(カラパイア)
http://karapaia.com/archives/52178018.html

(※3)
「仮面の裏側が見える人・見えない人:『ホロウマスク錯視』研究」(WIRED)
https://wired.jp/2009/04/09/仮面の裏側が見える人・見えない人:「ホロウマ/

(※4)
「第1部 特集 データ主導経済と社会変革」(総務省地方財政白書平成29年版)
http://www.soumu.go.jp/johotsusintokei/whitepaper/ja/h29/html/nc121210.html

次回:「星空」がもたらす想像力とエネルギー:北海道地震の停電から考える【「数字」から垣間見る過去(第4回)】

[記事作成者:市川遊佐]