『理性の限界』:人間はどこまで「可能」か?【山下泰春の「入門書」入門(第2回)】

前回:『カント入門』:人間の「理性」は正しいか?【山下泰春の「入門書」入門(第1回)】

◆理性の「限界」はどこにある?

前回の記事で筆者はイマヌエル・カント(1724~1804)というドイツの哲学者の入門書を取り上げ、彼の哲学の根本には「理性」に対する不信感が貫かれていたと述べた。今回の記事も、同じように「理性」を題材として取り上げるのだが、今回は一人の哲学者の「入門」というよりは、人間の理性の「限界」について考える上で非常に面白いと感じた本の紹介をしたいと思う。

その本とは『理性の限界:不可能性・不確定性・不完全性』(高橋昌一郎、2008年、講談社)である。一見すると物々しい表題が掲げられている本なのだが、その中身は初学者にとても易しいものとなっている。というのも、それは本書の形式が架空の「理性の限界」というテーマで開かれたシンポジウムに集まった参加者たちによる知的なディベートという設定で書かれた、いわゆる「対談形式」の本となっているからだ。

416bWSdOf2L

『理性の限界:不可能性・不確定性・不完全性』書影

また、そのシンポジウムに集まる人たちの中には、何も特定の専門家や学者だけでなく、学生や会社員、運動選手などいわゆる「素人」も多数登場してくる(その中には方法論的虚無主義者など、一部突飛な人物も出てくるが)。そのため、同書は一つのテーマについて多角的な見方を提供してくれる。分かりづらいと思われる個所には、多くの場合「大学生」や「会社員」が「それは一体どういう意味なんです?」と疑問をさしはさみ、専門家に解説を求めている。また、逆に「あまりに専門的過ぎる」内容については、シンポジウムの「司会者」なる人物が、「それはまたの機会に……」と止めにかかることで、私たちがパニックにならないように取り計らってくれている。

◆第1セッション:アロウの不可能性定理

ここまでは『理性の限界』の形式について紹介したが、次にそのシンポジウムではどのような話が繰り広げられたのかについて述べていこう。簡単に言えば、シンポジウムは三つのセッションに分けられていて、それぞれ①人間の合理的な選択の不可能性、②科学的認識の不確定性、③論理的思考の不完全性の三つが議題に挙げられている。

まず、①の合理的な選択の不可能性について見ていこう。私たちは日常的に、常に選択を迫られている。それは、例えば飲み物を紅茶とコーヒーのどちらにするか、または今夜の夕食を何にするかといった卑近な話から、進学や就職のような人生を左右するような選択や、選挙の投票のような社会的な選択も含まれる。あるいは友人たちと「旅行先をどこにするかを決める」というような状況もまた「選択」の例だろう。そうした場合は大抵「多数決」によって選択がなされることになるが、実はその一見「理性的」に見える「多数決」にもかなりの非合理性が含まれていると、『理性の限界』に登場する数理経済学者は述べている。

議論の詳細については読者自身が実際に読み進めてそのダイナミズムを味わっていただくとして、この話の顛末としては「合理的な選択方法というものは存在しない」という結論に行き着く。そして、それを社会科学的に解き明かしたのが、アメリカの経済学者のケネス・アロウ(1921~2017)という人物であることが紹介される。簡単に言えばアロウは、集団の社会的選択において、完全に民主的な決定方式は存在しないということを証明した。これが、いわゆる「アロウの不可能性定理」である。

アロウのこの定理の証明は一般に難解であると言われており、自力で証明できる経済学者も決して多くはないという。だが、高橋は『理性の限界』に登場する数理経済学者に「なるだけ専門用語を使わずに」その定理の説明をさせようと試みる。このように、まさに現代における「理性の限界」=今のところ最も合理的な思考の極致について、彼は本当に分かりやすく解き明かしている。これは、続く第二の議論である②科学的認識の不確定性、③論理的思考の不完全性についても同様である。

◆第2セッション:ハイゼンベルクの不確定性原理

第二のセッションでは「科学の限界」について話される。「科学」もまた、一般には人間の理性が生み出した集大成と考えられており、最近では遺伝子工学やナノテクノロジー、ロボティックスなど様々な分野で「科学的」な研究がなされている一方、そうした発達した「科学」は核兵器をはじめとして人々に恐怖感や不安感を抱かせるものでもある。あるいは、こうして様々に分化していく「科学」とはそもそも一体何なのか、そして科学は人間に何をもたらしたのか、科学はどこまで進むのか、という問いが冒頭に掲げられている。

これらの点について同書では、いわゆるニュートン力学から始まる近代科学を中心に、世の中を支配している様々な「法則」について議論が交わされている。ガリレオの地動説や、ニュートン力学をもとに計算すればあらゆる運動が予測できると仮定した「ラプラスの悪魔」、さらにはアインシュタインの有名な相対性理論についても、筆者のような文系の人間にも理解できるように易しく紹介される。そして、その極めつけに紹介されるのが、ドイツの理論物理学者であるヴェルナー・ハイゼンベルク(1901~1976)が唱えた、いわゆる「ハイゼンベルクの不確定性原理」である(※1)

この「ハイゼンベルクの不確定性原理」は「アロウの不可能性定理」と比べて有名だと思われるので内容は割愛するが、その後も「何が科学か」というテーマについて、カール・ポパー(1902~1994)「反証主義」からトーマス・クーン(1922~1996)「パラダイム論」、そしてポール・ファイヤアーベント(1924~1994)の「何でもあり(anything goes)」に至るまでの科学的思考の限界についての議論が繰り広げられる。最後のファイヤアーベントについての議論は、突き詰めて言えば「科学」と「疑似科学」は明確に分けることができないという、科学のある意味で根本を突き崩しかねない危うい話なのだが、そこで展開されている話は文系にとっても知的な刺激に満ち満ちている。

◆第3セッション:ゲーデルの不完全性定理

最後の第三セッションのテーマは「知識の限界」と題されるものである。第一、第二のセッションのテーマが社会科学および物理学であったのに対し、こちらでは数学と論理学がその対象となっている。そこでは「ぬきうちテストのパラドックス」という予測にまつわるパラドックスの紹介を皮切りに、それをいかに「解決」していくかの数学者や論理学者たちの格闘の様子が描かれる。ここでは、手短にではあるが「ぬきうちテストのパラドックス」について紹介しておこう。このパラドックスは、二つの命題によって構成されている。

命題①:月曜日~金曜日のいずれかの日にテストを行う。
命題②:どの日にテストを行うかは、当日にならなければわからない。

これを掲示板で見た大学生たちは、次のように推測する。それはつまり、もし木曜日の講義が終わった時点でテストが行われていない場合、「いずれの日にテストを行う」という命題から、金曜日にテストが行われることが分かる。ところが、その場合「どの日にテストを行うかは、当日にならなければわからない」という命題②に矛盾するため、金曜日にはテストが行えないはずであると推測する。そのため、テストの可能性は月曜日から木曜日の間に限定されることになる。

だが、大学生たちはさらに木曜日にもテストはないはずだと推測する。なぜなら、もし水曜日の講義が終わった時点でテストが行われていなければ、金曜日にテストは行われない以上、命題①により木曜日にテストが行われることが分かるからだ。しかし、それも命題②と矛盾するため、木曜日にもテストは行われない。同様に、水曜日も、火曜日も……そして最終的には月曜日もテストはできないはずだと大学生たちは考える。最終的にテストは金曜日に実施されたのだが、学生たちは当然困惑する。

このパラドックスは一見すると素朴なものだが、本書に登場する論理学者いわく「いまだに論理学会でも意見の一致が得られていないほど、多彩な問題を含んでいる」ものだとされている。ともあれ、この問題について一定の解決法が生み出されたのだが、そのキーとなっているのが、クルト・ゲーデル(1906~1978)が証明した「ゲーデルの不完全性定理」である(※2)

◆学問と日常と

以上、『理性の限界』の内容についてあらかた説明してきたが、いずれにしてもこの本で高橋は、各分野で生じている理性的な判断の限界について紹介してくれていると言えるだろう。しかも、難解な数式の証明などを使うことなく(一応出てくるには出てくるのだが、必ず簡単な解説が付いている)、あくまでそれぞれの人物が「どのような問題意識のもとで、どのような解決法を編み出したか」についてが焦点化されており、その格闘の様子を鮮やかに描き出しているという点で、入門書として非常に優れていると筆者は考えている。

確かに、上記で取り上げた「アロウの不可能性定理」や「ハイゼンベルクの不確定性原理」、そして「ゲーデルの不完全性定理」といったいわゆる三大定理は、私たちの日常生活と少し離れ過ぎているかもしれない。しかし、私たちの理性のある種の「限界」を一般人にも分かりやすい形で解説し、それらに関連する他の学問との接合可能性にまで言及した良書は稀だろう。

また、同書の筆者である高橋昌一郎は、「限界」シリーズと称して『理性の限界』の他にも『知性の限界:不可測性・不確実性・不可知性』(2010年、講談社)や『感性の限界:不合理性・不自由性・不条理性』(2012年、講談社)なども出版している。相変わらずタイトルこそ物々しいが、中身はやはりシンポジウムに集まった参加者たちによるディベート形式で書かれているため、機会があれば是非とも読んでみてはいかがだろうか。

【注釈】
(※1)
余談になるが2012年、名古屋大学の小澤正直教授がこの原理を「修正」したというニュースが世界中を駆け巡った。この修正によって「ハイゼンベルクの不確定性原理」は、80年以上の時代を経てより物体の位置の正確な測定が可能となったとされる。
http://www.nikkei-science.com/?p=16686

(※2)
簡単に言えばそれは「数学のシステムSに対して、真であるにもかかわらず、そのシステムでは証明できない命題Gを数学システムSの内部に構成する方法」である。その命題とは次のような文だ。すなわち、G=「Gは証明できない」。もしもこれが真だとすると、Gの命題通り「Gは証明できない」ことになり、もしこれが偽だとすると、Gの命題は否定されて「Gは証明できる」ことになり、矛盾が生じる。これは一般に「自己言及のパラドックス」と言われており、「ゲーデルの第一不完全性定理」と呼ばれるものである。これ以上の込み入った説明は、同じく高橋昌一郎の『ゲーデルの哲学:不完全性定理と神の存在論』(1999年、講談社)あるいは、「無限論」という集合論の立場からストーリー仕立てでその説明を行った野矢茂樹の『無限論の教室』(1998年、講談社)などを参照されたい。

【Amazonリンク】

次回:『資本』:人間とクレジットカード【山下泰春の「入門書」入門(第3回)】

[記事作成者:山下泰春]

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

%s と連携中