『全体主義』:時代論の書き方【山下泰春の「入門書」入門(第5回)】

前回:『ニーチェ入門』:ニーチェは名言botじゃない【山下泰春の「入門書」入門(第4回)】

◆世代論について

もうすぐ2020年になる。来年には平成という時代も終わるため、新たな年号を予想する大喜利が私のタイムライン上でもいくつか散見された。私は平成4年(1992年)生まれのため、昭和生まれの人たちからすればPCや携帯電話などが小学生時代から持たされることが多くなってくる時代であり、物質的に豊かな暮らしをしていると目されやすい世代だ。だが一方で「失われた20年」と呼ばれるバブル経済破綻後に巻き起こった経済不況が始まったのも1990年代初頭である。また、悪評高いまま終わった「ゆとり教育」にどっぷり浸かった学校生活を送っていたとされる世代でもあり(※1)、ひとえに「豊かだった」と思えるような世代ではなかった(そもそも「幸福な世代」があるのかどうかは別にして)。

ともあれ、いつの時代でも特定の「世代論」というものが登場する。直近のものであれば1990年代から2000年代(=「ゼロ年代」)を対象に扱った宇野常寛の『ゼロ年代の想像力』(2008年、早川書房)や「オタク」をキーワードに1970年以降の日本文化を総括した東浩紀の『動物化するポストモダン』(2001年、講談社)などが例に挙げられるだろう。さらに少し遡れば1960~70年代を取り扱った山崎正和の『柔らかい個人主義の誕生』(1984年、中央公論社)などが今でも名著として数えられることが多い。

今回は、そうした世代論とは少し趣を異にするが、20世紀の文化を取り扱ったエンツォ・トラヴェルソ著の『全体主義』(2010年、平凡社)という本を取り上げる。全体主義—この言葉ほど、曖昧なまま解釈さらには使用されているケースは少なくないと、著者のトラヴェルソは述べる。確かに、全体主義と聞いてヒトラーやスターリン政治のことを漠然と思い浮かべる人は少なくないだろう。だが、その具体的な起源や意味合いについて知っている人は多くはないのではないだろうか。トラヴェルソからすると、全体主義と聞いてヒトラーとスターリンを挙げることは半分は正解で、もう半分は間違っている。少し詳しく述べていこう。

◆「全体主義」という言葉の起源について

トラヴェルソによると「全体主義」という言葉は、1923年~1933年頃の、権力の座にありついたばかりのムッソリーニが専制政体の道を歩み出した事態に対して、イタリアの反ファシズム陣営が「全体主義的な」という形容詞を使ったことに端を発する(※2)。だがそれは次第にあらゆる集団の要素を「国家」という枠組みの内にまとめるための都合のいい言葉としてファシズム体制側(ムッソリーニ、ヒトラー)が用いるようになる。むしろ上記で述べたようなスターリン政治(=社会主義)は、むしろ自由主義陣営と対置されており、ファシストたち(全体主義者)はそのボルシェビズムの付属品、ないしはレーニンの猿真似としか目されていなかった。

そして今度は亡命者たちによる反ファシズム文化(この中にはもちろん『全体主義の起源』で有名な哲学者ハンナ・アーレントも含まれる)のなかで「全体主義」という言葉が使われるようになり、スターリニズムを批判する左翼たちの言説の中にも見られるようになる(この権力関係上の定義が、およそ今の時代の私たちが考える「全体主義」に近いと言えようか)。そして第二次世界大戦後、米ソ冷戦という対立構造の中で、権力関係が再び大きく変わることとなり、その言葉はアメリカを筆頭とする「自由主義」者たちによる反共産主義のスローガンとして使われるようになる。

紙幅の都合上その語の説明はここで一区切りとするが、あえて一言で要約すると、「全体主義」という言葉は「その意味が玉虫色に変化する、論争のための言葉だった」と言えるだろう。権力関係によってコロコロと意味合いを変化させ、相手を非難するためだけに用いられる都合のいいカード。それが「全体主義」という言葉なのである。

◆21世紀を生き残るために

翻って、21世紀に生きている我々は、(トラヴェルソに言わせれば)全体主義的な世界のうちに生きている訳ではない。少なくともソヴィエト連邦が崩壊して以来、その言葉は現代性(アクチュアリティー)を喪失していると彼は説く。それはつまり、20世紀において誕生し終焉を迎えたファシズムと同様、共産主義も終焉したとトラヴェルソが考えているためだ。

だが、決してその「全体主義」という言葉が前提としていた現実を忘れてはならないと彼は続ける。「ファシズムに押しつぶされた経験を忘れた民主主義は、脆弱なものでしかない」のである。また同時に、21世紀においてこの言葉が他の概念(例えば「グローバリゼーション」など)の脅威を隠蔽してもいけないとトラヴェルソは言う。今我々が対峙しているのは、ジョージ・オーウェルの『一九八四』で描かれる20世紀的なビッグ・ブラザーではなく、「抑制しえない」経済や法の方だからだ。

総括しよう。一つの言葉(概念)にしても、時代によってその意味合いを変化させることは容易にあり得る。それは単なる誤配によって生じるもの(例えば「役不足」や「性癖」、「犬も歩けば棒に当たる」など)もあれば、今回の「全体主義」のように権力関係や政治情勢によって変化する語もある。仮にもしも現代においてこうした言葉を使用する人物がいたとすれば、今一度注意を払うべきではなかろうか。というのも、その言葉によって何が言い表され、何が隠されているのかを見極めるためには、現在と過去との距離感が重要になってくるためだ。歴史にばかり固執して現在が見えないことは恐ろしいが、歴史を蔑ろにすることで、過去に現在が復讐されることもまた恐ろしいことではないだろうか。

【注釈】
(※1)
いわゆる学校週休2日制が始まったのは2002年頃からだが、土曜授業が実施されていた公立高校は少なからず存在していた。

(※2)
より詳細に言えば、全体主義という言葉の起源は第一次世界大戦にまで遡ることができるとトラヴェルソは述べる。毒ガスや塹壕、戦車や大砲といった科学技術によって戦争は、「全体戦争」と呼称されるほど悲惨なものとなり、その様相は第一回で取り上げたイマヌエル・カントの言葉を借りると「殲滅戦争」そのものである。

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なお、アーレントの『全体主義の起源』については、その内容の面を追うだけであれば第三巻(副題がまさに「全体主義」とある)から第一巻に遡って読むほうが理解しやすいだろう。

[記事制作者:山下泰春]

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