【第6回】GIVE A REASON(私が『ひとりぼっちの地球侵略』と共に辿り着いた「コンテンツ」の限界)

前回:【第5回】アイを見つけた場所(私が『ひとりぼっちの地球侵略』と共に辿り着いた「コンテンツ」の限界)

◆迷走の始まり

2015年5月末、「さいむさんの『ぼっち侵略』語りには自分がない」と言われショックを受けた私は、『ぼっち侵略』を通して自分が得た答えを言語化しようと決意、翌月から試行錯誤を開始します。とにかく失敗作とでも言うべき文章を大量に書いていた時期ですが、一方でこれらの失敗はやがて実りある発見に繋がっていくきっかけにもなっていきました。今回はそうして迷走をし続けた2016年後半のさいむの様子をお届けします。

さて、前述のような決意を固めたとは言え、当時の段階ではそれが自分の中にちゃんとあるのかすら不明瞭な状態でした。当然、その答えに直接アプローチする手がかりもありません。その状態で私が最初に行ったのは、「自分の今までの『ぼっち侵略』読解をひとまず整理し直す」ことでした。当時は1巻の感想記事しかなかった自分のブログに、1巻~7巻までの総まとめ記事を書いたのです。

・ひとりぼっちの地球侵略7巻までをざっくり振り返ってみた。

私が総まとめ記事で確認しようしたのは、『ぼっち侵略』のストーリーには何か一貫した連続性が存在する、ということです。その存在自体には去年の段階から気づいていたのですが、そうやってハッキリと記事にするのはそれが初めてでした。

2013~2014年の私は『ぼっち侵略』のオマージュをこそ『ぼっち侵略』の真髄と信じて疑っていなかった時期があるのですが、この頃は大分その考え方に自ら疑問を呈するようになっていました。確かにオマージュを発見することそれ自体は面白いものですしその描かれ方も(私の主観を信じる限り)見事なものでした。が、それらはあくまで作品の一部品に過ぎないのではないか、そんな気がするようになったのです。そもそもオマージュは後から外部の情報を動員することで知識として得たものであり、それを探ることは快感であっても最初に読んだときに感じたあの感動ではありませんでした。それよりも、作品単体を読み込む中で発見した連続性の方があのときの感動に近い気がしたのです。

勿論これは自身の経験に基づいたただの勘であり、確たる根拠はどこにもありませんでした。そのため、この総まとめ記事を書いた後すぐさま別のアプローチに飛びついて迷走を繰り返すことになります。が、ここでの試行錯誤こそが実は一番私の求めていたものに近かったことが後々明らかになるのです。

◆批評の真似事

さて、そんなことを知る由もない私は、続いて直近に発売されていた『ぼっち侵略』8巻の感想記事を執筆。『ぼっち侵略』既刊を網羅し終えると、次のアプローチへと移ります。それはサブカルチャー作品を扱った批評文のような何かを書くことでした。

・「ヒーロー」と「超人」という異なる概念、そして「ヒーローの錯覚現象」について。

投稿日は『ガッチャマン クラウズ インサイト』が放送される前日であり、実際私自身それを意識して書いた文章でした。自分の答えを探したいのなら批評を書いたらいいのではないか、というフォロワーからのアドバイスを参考に、ヒーローというものについてなら何かしら書けるものがあるのではないか、そう思ったのです。これには「さいむさんは何かアニメの感想を同人誌に寄稿しないの?」というアニメ批評界隈のフォロワーからの質問にも取り敢えず答えたものでした。「こんなものなら書けるけど、こういう質や方向性でもいいの?」という返事を込めたのです。

そんな記事に対する反応は芳しくありませんでした。と言うのも、当時の私の考えが浅かったため、世に言うヒーローの一側面しか語ることができていなかったようなのです。落ち込んだ私は記事を書き直そうかと考えたものの、結局モチベーションが続かず諦めてしまいます。その後も私は大学時代の小論文課題を引っ張り出したり、当時話題になっていた作品にアレコレ言及してみたりと、ブログで数度批評の真似事をやってはみました。しかし、どれも『ぼっち侵略』程の手応えや充実感がなく、結局私は9月いっぱいでこうした活動をやめてしまいました。

そもそも、このときの私は何故か『ぼっち侵略』の批評を書かず、他の作品を用いた批評ばかりを書いていました。理由は単純で、まだ自分の答えが見つかってもいない内に『ぼっち侵略』の結論を性急に求めて失敗したくなかったからです。今思い返すと、確かに当時の実力では『ぼっち侵略』という作品を総括するにはまだまだ実力不足でした。ですが、私はそこから逃げるために他の作品に軽率に手を出してしまっていました。そういう逃げの姿勢が当時書いた文章の失敗に繋がってしまったと言ってもあながち的外れではないでしょう。

ちなみに、ここで書いた文章の一つが、後々予想だにしない大変身を遂げることになるのですが……そちらはまた次の機会に。

マチアソビサイン会画像。

2015年12月には、本連載第3回で紹介したサイン会の話も記事にしました。2年後にやっと記事にできるぐらいダメージの大きい出来事だったのです……。

◆ブログ大会の収穫と反省

2015年後半に批評に手を出していた一方で、2015年8月下旬から私はもう一つの活動も並行して行っていました。それが『ひとりぼっちの地球侵略感想ブログ大会』です。

どういう大会かというと、「みんなで自分のブログに『ひとりぼっちの地球侵略』の感想記事を書こう!」という大会です。……本当にただそれだけの大会で、「大会」と銘打って起きながら別に優勝者を決めるわけでも景品を決めるわけでもないグダグダな催しになってしまいました。そうなった理由は後述するとして、まずはこの大会を私が突如開催した経緯からお話しします。

5月以降、私はぼっち侵略について自分の答えを出すことができず困っていました。その解決策として作品の再整理をしたり批評の真似事に手を出していたのですが、一方で「批評以前にそもそも私は『ぼっち侵略』の感想記事すらまともに書いたことがないのでは?」とも考え始めたのです。

当時私が書いていた感想記事は、全て『ぼっち侵略』の読み方をガイドするために作品の構造分析や演出読解を行ったものでした。今の私は意図的にそういうものを書いていますが、当時の私は「みんな私ほど『ぼっち侵略』を読み込めていないのはまずいのでは?」という焦りからそういったスタイルを選択し、それが何となく続いているだけでした。これでは便宜上感想記事と名乗っているだけで、実際には感想記事でも何でもありません。かと言って自分の答えが見つからない私は『ぼっち侵略』の感想をまだちゃんと書くことができません。

そこで私は突如閃きました。

「そうだ! 他の人に感想記事を書いて貰えばいいんだ!」

つまり、他の人にぼっち侵略の感想記事を書いて貰って、そこから自分の役に立ちそうなものを拝借すればいいと考えたのです。そこには「ファンとして『ぼっち侵略』の人気をより高める活動がしたい」という思いも含まれていましたが(名目上の理由は寧ろそちらが本命なのだと説明していました)、ともあれ私はその場の思いつきのままに『ひとりぼっちの地球侵略感想ブログ大会』を開催したのです。

事前に幾人かのフォロワーに参加を依頼していたのもあって、結果的にはそこそこの人数が大会には参加してくれました。自前のブログを持たない人が私のブログに寄稿してくれたりと、私がやったことにもそれなりの意義があるかもしれない、と私も少し嬉しくなっていました。が、それもやがて雲散霧消していきます。私が「これだ!」と思う感想記事に何時まで経っても出会えないのです。

思い返せば3年近く時間を費やして自分と同じような人間に出会えない時点でそのことに気づくべきだったのですが、感想記事という名目で記事を募れば、集まってくるのは当然その大半が主観的な感想です。私が求めていたのは「自分の答え」であって他人の答えではありませんでしたし、そもそもその自分の答えすら不明瞭な状態で他人の答えをどうこうと断ずることもまた不可能です。当時の私にできるのは、その感想記事における読解の巧拙をひたすら見極めることだけでした。

ならば批評文が来ればよかったのかと言えば、そちらも「感想記事」ではないのだから当時の私の求めるものではありません。そもそも批評にしても、『ぼっち侵略』そのものの言説が少ない以上は何らかの外部要素をアプローチとして用いたものになりやすく、それでは私が当時疑問を抱き始めていたオマージュに注目する手法とそれ程変わらないものに(当時の私には)見えてしまいます。

要するに、他人の意見を参考にするには自分自身の認識が余りにも稚拙過ぎたのです。そうこうしているうちにモチベーションが下がり、結局開催期間が終わった時点で大会はうやむやになってしまいました。ぼっち侵略の感想記事が増えたこと自体はそこそこの成果と言って良かったですし、当時の私が満足しなかったこととは別に、各記事の中には面白い視点で『ぼっち侵略』を掘り下げたものも幾つかありました。ただ、私がもっときちんと大会を終わらせることができればそれらの価値をよりアピールできたのではないか、そう後悔するばかりです。

◆オマージュを越えて

2015年10月中旬は、私の『ぼっち侵略』に対するアプローチが変わり始めた転換点の一つと言える時期です。この頃、私は『ぼっち侵略』のオマージュに関する総括記事を書き上げたのです。私が『ぼっち侵略』以外の作品で批評を書くことを諦めてから約2週間後のことでした。

TVアニメ版『血界戦線』と『ひとりぼっちの地球侵略』の共通点に関する話。-パーツ化されたオマージュとその意図-

当時放送していた『血界戦線』の話も絡めた、約28,000文字の超大作(?)となりました。これは『血界戦線』の話を加えたことは勿論、私が確度の低いオマージュ情報も記事の中に全て書き尽くしたことが原因です。はっきり言って、このときの私は本当にそれがオマージュであるかどうかよりも、オマージュである可能性が比較的高い描写を全て網羅することに心血を注いでいました。それもその筈、私がこの記事を書いた最大の理由は「オマージュに拘る自分と決別すること」だったのです。

『ぼっち侵略』読解の再整理やブログ大会に取り組む中で、私はある仮説を立てつつありました。それは「オマージュそれ単体では作品のテーマに迫りきることはできないのではないか」というものです。確かに『ぼっち侵略』のオマージュは作品のテーマ(当時はテーマらしきもの、程度の確度)に迫るものであるとは感じられました。しかし、作品はオマージュだけで成り立つものではありません。まず作品それ自体の中で完結するストーリーやテーマがあり、それを補助する形でオマージュが追加されるのです。勿論例外も存在しますが、『ぼっち侵略』についてはその例外には当てはまらないと私は考えるようになってたのです。

ただ、それだけですぐオマージュへの好奇心を全て捨て去れることはできませんでした。オマージュを読み解く行為の快楽は物語やテーマの読解とはまた別に存在していたからです。ならばそのオマージュの解説を徹底して行えば、オマージュに拘る自分を捨て去れるのではないか、私はそう考え『ぼっち侵略』のオマージュを網羅する記事を強引に書き始めたのです。

結果として、確度の低いオマージュの可能性にも言及した記事の質は(今読み返すと)悪くなってしまいました。自分の妄念を発散する場として、私は28,000文字という熱量を使い潰したのです。その分オマージュへの決別は上手くいき、私は『ぼっち侵略』という作品のストーリーやテーマの追究に専念できるようになりました。2015年末には『ぼっち侵略』9巻の感想記事を書き、『ぼっち侵略』各巻の読解を継続できる体勢を整えたのです。

こうして、多くの失敗と僅かばかりの成功を手にして私の2015年は終わりました。そして2016年、『ぼっち侵略』のためだけに活動を続けてきたさいむを史上最大の衝撃が襲うことになります。その衝撃は、奇しくも私がここで積み上げた失敗の一つに端を発したものだったのです。(続)

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[記事作成者:さいむ]

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