『これが現象学だ』:「私」は「他人」と分かり合えるか?【山下泰春の「入門書」入門(第6回)】


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◆「私」は普通じゃない

私はよく昔から「変わってるね」とか「普通じゃない」と言われてきた。今でも「じゃあ普通って何だよ」と思うことはあるが、結局その人たちが言っていた「普通」とは、その人にとっての価値観が変化しない状態のことを指すのだと、何年か前から思うようになった。だから例えば私は「変なことをする人」とその人に認識されていれば、変なことをすることはむしろ「普通」であり、変なことをしないことの方がむしろ「普通じゃない」ことになるのだ。

ともあれ、私にとっても「他人」というものは常に不可解で未知な存在だった。私に対して「変だ」とか「普通じゃない」と何故言えるのか。相手が変わっている人物だとしたら、自分自身もまたその人にとって「変わっている」はずではないか。こんな風に「なぜこの人は私に対してこう振る舞うのか」ということを考え始めると、不思議と自分の中の別の誰かが、上から達観して眺めているような感覚を小学生の高学年になった頃には覚えていた。

「他人」は結局自分ではない。だから他人は分からない。だが、どこかでは「分かり合えるはずだ」と考えることがある。そしていくつかのそれらしいタイトルの本をあたってみたりもした。例えば『人の心はどこまでわかるか』(2000,講談社)は、心理学者の立場から「人のことは分からない」ことを前提に、むしろ人は「どこまでわかるのか」ということについて述べた名著だ。だが結局、どこまでいっても「他人」は不可解で未知の存在であることは変わらなかった。

◆他人とは存在=超越である

ところで、こうした「他人」がそもそも私たちの認識の「外部」にあると規定したのが、今回取り扱う「現象学」という分野である。今回紹介する『これが現象学だ』(2002,講談社)の中で、著者の谷徹は「存在=超越」と説いている。これはつまり、目の前にいる誰か(友人であったり家族であったり赤の他人であったり)はそもそも「私」が「構成」したイメージに他ならないということを意味している。だからこそ、他人は「私」のイメージした構成をはみ出て「私」の予想外の行動をしたり、あるいは裏切ったりするのである。こうした他人を「私」のイメージの構成によってしか捉えられない事態を、谷は「超越論的主観性」と呼んでいる。

だが、こうした「超越論的主観性」に基づく他人の捉え方は、突き詰めれば「独我論」(=自分だけが世界に存在しており、自分以外の存在は信頼できない)にまで陥ってしまう危うい思想である。確かに他人、ひいてはあらゆる客観的な事物は自分がいなくても存在している。そこで現象学の創設者であるエトムント・フッサール(1859~1938)は、こうした事物の「客観性」を根底から疑い、そもそも「客観的な」事物に対して意味を与えたり、あらためて考察したりすることができるのは、単なる「客観性」の対義語としての「主観性」ではなく、上述した「超越論的主観性」に基づくことによって可能になると規定した。

このことを「他人」の話に即して平たく言い換えれば、他人は確かに「私」がいない時でも存在し、何かしらの経験をしているが、あらためてそうした「他人」がいかに構成されている(あるいは「私」がしている)か、ということを問い直す態度こそが現象学であると言えるだろう。とは言っても、実際にこうした「他人」が、いかに認識し経験するか(=関主観性
という問題がとりわけ顕在化したのは、先ほど紹介したフッサールの晩年の講義録『デカルト的考察』の「第五省察」によってである。そこにおいて初めてフッサールは、「私」が構成し得るイメージを「他人」も同じように経験するだろう、という基盤を形作ることになったのである。

◆現象学のその後

ともあれフッサールが開始した「現象学」という分野はその後、幅広い分野で受容され、解釈されていった。彼が提唱した様々な用語、例えば「生活世界(Lebenswelt)」という概念は、アメリカに移住し、現象学的社会学を創設した人物であるアルフレッド・シュッツとトーマス・ルックマンの共著『生活世界の構造』(2015,筑摩書房)で詳しく論じられたり、あるいはフランスに輸入された際に「生きられる空間(Espace vécu)」として翻訳された上で、モーリス・メルロ=ポンティの『知覚の現象学』(1967,みすず書房)によって考察されたり、その影響力という意味では他の学問分野の追随を許さないだろう。

また、フッサールは(哲学者ではよくあることだが)、前期・中期・後期で大きく思想が異なる哲学者でもある。先ほどの「超越論的主観性」は、存在=超越を構成することでもって「超越論的」とされていた。だが、後期に至るにつれて、フッサールは「世界」をそうした「超越論的主観性」に基づかず、むしろ「私」に先立って構成されていると考えるようになった。こうした「転回」以降のフッサールについては、新田義弘の『現象学とは何か』(1992,講談社)に詳しいので、こちらを参照されたい(但し、難解な用語が頻出するため、それなりに覚悟を持って挑まれたい)。

そして、繰り返しこの記事のテーマとして挙げている「他人」あるいは「他者」とは何か、ということについて、より哲学的な意味で解説したのが『アレ』Vol.4における小川歩人の論考「他『者』未満な他者について」である。もしもこうした問題に関心がある場合——手前味噌にはなるが——ご一読されたい。

[記事作成者:山下泰春]