【第3回】安丸良夫『出口なお:女性教祖と救済思想』について (日本人の「勤勉さ」と近世後期の新宗教)

前回:【第2回】小沢浩『生き神の思想史』について(日本人の「勤勉さ」と近世後期の新宗教)

◆前回の内容

前回、筆者は小沢浩『生き神の思想史』(岩波書店,2010)を参照して以下の二点を概観した。まず第一に、近世の民衆には自分たちを弱く罪深い存在として見なすような自己否定的な人間観が存在していたということ。そして第二に、当時の宗教的指導者たちが、勤勉な民衆と同様に、経済的困窮や不和等に苛まれていた境遇から出発し、自身の苦境から解放されようとする過程で「生き神」になったのだということ。

そして、筆者はこの二点を踏まえた上で、当時の「生き神」たちと民衆の人間観には人間の有限性を強く自覚する視点があったことを論じた。また、ここから筆者は、このような「生き神」たちと民衆の人間観の系譜を考えていき、彼らの人間観がそれ以前から存在していた浄土真宗をはじめとする鎌倉仏教などの教えと類縁性が高いと思われることについても述べた。

これらのことを認識しておくのは、私たちの心性の起源を知る上で重要なことであろう。というのも、当時の民衆の通俗道徳と共通する部分を「生き神」たちの言葉から確認できるように、一見すると社会からかけ離れているように見える信仰も、実際には同時期の世俗社会に流通している道徳観と関係している場合があるからだ。小規模ではない宗教の教祖となるような霊的カリスマは、「ふつう」の人々とは初めから異なった特殊な人間であると一般的には考えられがちである。しかし、前回概観したように、それは実態とは異なるのだ。

一九世紀を生きた「生き神」たちも、「生き神」としての覚醒を果たす前はどこにでもいる民衆のひとりだったのであり、当時の民衆に共有されていた道徳観を背景に出現し、台頭した側面がある。つまり、彼らは当時の民衆の内面世界を象徴する存在なのであり、それゆえ彼らの生について具体的に知ることは当時の民衆の内面世界を把握する方法のひとつだと言えるだろう。現在の私たちの心性の起源を知る上で、近世の「生き神」たちの個人的な生について学ぶことはさまざまな示唆を与えてくれるのである。

◆今回のテーマ

彼らの生についてより深く知る上でのヒントを与えてくれるのが、今回紹介する安丸良夫『出口なお:女性教祖と救済思想』(岩波書店,2013)である。本書は大本教の教祖である出口なお(1836~1918)の内面に迫ることを試みた評伝である。本書の中で安丸は出口なおについて、「神がかり」するまでは無口でつつましく目立たない女性だったと記述している。出口なおは、教団が発展してからも清貧を旨とし、信者たちにも謙虚な態度で接したが、そこからは出口なおの「平凡な」まじめさをうかがうことができるだろう。

そのような「平凡な」出口なおが「神がかり」に至るまでの過程はまさに苦難の連続だった。夫は浪費家で家を没落させ、なおは自ら出稼ぎをして家計を支えた。十一人の子供のうち、三人が夭折し、夫が死んだ後は、長女や三女の発狂、長男の自殺未遂という不幸にも見舞われた。彼女の住んでいた本宮村も、犯罪者や自殺者が少なからず出ており、平和だとは決して言えない場所だった。出口なおは当時の民衆のひとりとして世俗的な苦難を味わったのであり、そうした苦難がまじめな彼女を「生き神」になる方向へ導いていったのだろう。「生き神」となって「神がかり」した彼女は、自分の娘に「どこそこへ行って水を撒いてこい」と指示を出したり、村人の名前を次々と挙げて「神に屋敷地を明け渡すように」と大声で叫んだり、「神の言葉」を文字に起こしたりした。

◆本題1:出口なおの「立替」思想とその異質性

一八九二年二月三日、出口なおが「神がかり」したことから立教した大本教は、一八九四年九月頃に彼女がたびたび他人の病を治癒する奇跡を起こしたという評判が立ったことから教団を形成しはじめ、一八九四年から一八九九年まで形式上だけ金光教の綾部布教所となった後、上田喜三郎(後の出口王仁三郎)を迎え入れて教団としての体制を確立した。そして大正期には爆発的な発展を迎えることとなるが、その背景にあったのは出口なおの、既存の社会に対して批判的な「立替」思想だった。

安丸は出口なおの「立替」思想が目指している方向について「すさまじい終末観をともなうこの世界全体の根本的な改革」と書いている。そうした目標は、当時の世界に対する出口なおの批判的なまなざしを含んでいるのではないだろうか。そのことは「明治二十五年旧正月」付の「初発の神諭」にある出口なおの次の言葉に確認できる。

「三ぜん世界(引用者注:原文ママ)一度に開く梅の花、艮(引用者ルビ:うしとら)の金神の世になりたぞよ。梅で開いて松で治める神国の世になりたぞよ。日本は神道、神が構はな行けぬ国であるぞよ。外国は獣類(けもの)の世、強いもの勝ちの悪魔ばかりの国であるぞよ。日本も獣(けもの)の世になりて居るぞよ。外国人にばかされて、尻の毛まで抜かれて居りても、未だ眼が覚めん暗がりの世になりて居るぞよ。是では国は立ちては行かんから、神が表に現はれて、三千世界の立替へ立直しを致すぞよ」

ここで出口なおは、外国を「獣類の世」、日本を「暗がりの世」であると規定した上で「艮の金神」による「立替」ないし改革が行われることを告知しているが、そこには、世界全体を劣悪な場所であるとする明確な認識が存在している。

このような苛烈な世界認識の系譜は、日本国内の宗教史においては、仏の教えが廃れた「末法」の世として現在の世界を把握する鎌倉期の仏教にまで遡ることができるが、一方で、法華経を信じれば国家安泰が望めると主張した日蓮宗を除けば、それらの多くは、社会に対して徹底的な批判を展開したとは言いがたい。その点で、出口なおの「立替」思想はそれまでの日本宗教史の流れからすればめずらしい性質を持っていると言わざるをえないだろう。

「立替」思想を出口なおに述べさせた「神がかり」という現象は、現代日本では「ふつう」ではない狂気の産物として把握され、穏やかに遠ざけられるものであるだろうし、当時においても「神がかり」を起こした彼女は当初周りから「子のことを心配して逆上(のぼ)せた」と言われ、「狂人(きちがい)」(註1)と呼ばれた。彼女の狂気を心配した近所の人々が、法華経の僧侶に憑霊退散の祈祷をさせたこともあった。このように、「神がかり」から生じた、既存の社会に対して批判的な「立替」思想もまた、狂気の一部として受け止められかねないものである。

だが、なおの思想が少なくない人々の支持を得て、単なる狂気として看過できなくなった結果、その思想の批判の対象である当の社会を統治していた日本政府は、大本教に対して過剰な反応を示したのだった。このことは注目に値する。というのも、そこには当時の日本政府がいかに大本教を「異質」なものと見ていたかが確認できるからである。

例えば、出口なおの死後、大本教は内務省から統制を受けている。大本事件と呼ばれているこの出来事は、一九二一年の第一次大本事件と、一九三五年の第二次大本事件とで二回あった。早瀬圭一『大本襲撃』(毎日新聞社,2007)によれば、第一次大本事件では、出口なお亡き後の教団を率いていた出口王仁三郎や複数の教団幹部が検挙され、第二次大本事件では教団に所属している信徒のうち九八七人が検挙、三一八人が送検されている。大本教に対する内務省の感情の強さをここからうかがうことができるだろう。また、第二次大本事件における警察の取り調べは激しく、出口王仁三郎の後継者と目されていた出口日出麿は拷問の末に精神的異常をきたし、最高幹部の一人である岩田久太郎は衰弱死している。他にも独房内で縊死する人物も出したりしている。内務省による大本教への統制は、合理的な範疇を大きく超えたものだったと言わざるをえないが、その背景には、大本教に陸海軍の将校が多数入信していたことや、出口王仁三郎が右翼や政治家と交流を持っていたことに対する日本政府の危機感があった。

◆本題2:民衆の自己抑圧と「神がかり」の意義

このような大きな騒動にまで発展した大本教だが、そのような発展はなぜ起こったのか。その理由を考える上では、「神がかり」が民衆にとってどのような意義を持つのかを考えることがヒントになる。

安丸は、自身や世界について独自に解釈する力を社会に奪われている存在として民衆を把握すると同時に、民衆がそのように支配されている状態から脱出する際のスタイルのひとつとして「神がかり」を位置づけている。「神がかり」が民衆にとって持つ意義について安丸は次のように書いている。

「民衆は、生活についての専門家であり、経験とその伝承をふまえた知識や、それらを統御している処世知などをもちあわせている。しかし、世界の全体性は、民衆にとってすでに定められたものとして重くのしかかっており、その存在の仕方や意味について配慮することも、それにふさわしい権威ある人たちにゆだねられている。一つの支配の仕組として存在しているこの世界は、価値や意味の秩序としても存在しており、支配されている民衆は、現実の社会関係において支配されているだけでなく、この世界を秩序づけている価値や意味においても支配されている。

こうした文脈では、民衆とは、自己と世界の全体性を独自に意味づける権能を拒まれている人たちのことであり、神がかりとは、こうした人たちが神という現存の秩序をこえる権威を構築することによって、自己と世界との独自な意味づけに道を拓く特殊な様式のことである」

ところで、民衆が受けているこのような支配は、実は民衆が自分たちの外部から無理やり押し付けられているものであるとは言えないように思われる。むしろ、そうした支配は民衆の内側から発生しているものなのではないだろうか。

つまり、安丸の言っている内容をより厳密に表現するとすれば、当時の民衆は「支配」されていたというよりも自分自身を自ら抑圧していたのである。とはいえ、そうした自己抑圧は、彼らの意思によって為されていたわけではなく、どちらかといえば、彼らが自分たちの社会から受け取っていた勤勉さという道徳によってそれは引き起こされていたと考えるほうが妥当であるだろう。

◆考察:勤勉さによる自己抑制が、勤勉に取り組むべき対象を考えることを難しくする

勤勉であることには謙虚さ、すなわち自身に対する抑制がともなうが、その点では、勤勉な民衆とは自分たちに抑制を加える存在であると言えるだろう。しかし、果たして勤勉さという道徳は、それ自身でうまく機能するものなのだろうか? この点に着目して、大本教について取り扱った内容を考察してみたい。

これは筆者の所感だが、勤勉さという道徳は、それを持つ人間に「物事により真面目に取り組め」という命令を発する一方で、その道徳それ自体は「真面目に取り組む」対象や、達成されるべき目標を与えてくれるわけではないように思われる。

そういった対象や目標を定立するためには、なにを良いものとするかを検討する思考が必要であるが、しかし、自身を抑えようとする人たちにおいては、そのような主体的な思考は十全に行われにくいのではないだろうか。そのとき、勤勉な人々の目には、安丸が言うような「権威ある人たち」はまさに自身の思考を代わりに行ってくれる、すなわち民衆自身が自らの謙虚さを失うことなく、外部から真面目に取り組む対象や目標を与えてくれる人物として映ることだろう。

このようにして、社会的に「権威ある人たち」の権威はより増幅されると同時に、勤勉な民衆は一層その権威に縛られ、そのもとで自己規定を行うようになるのであり、かくして当時の民衆は安丸が「自己と世界の全体性を独自に意味づける権能を拒まれている人たち」と呼んだような存在になっていったのだと考えられる。

このような「目標を与える – 目標達成に向けて勤勉に取り組む」という関係がうまく機能しているうちは問題にならないのだが、過剰な勤勉さが自己抑制を行き過ぎたものとし、民衆自身がそれに耐えられなくなるとき、この関係を根本から破る行為として「神がかり」が起こると考えられるのだ。そのように「神」を要請せざるをえないほどに、当時の民衆の、勤勉さに由来する自己抑圧は強いものだったのだろう。

そして、この「神がかり」が与える新しい世界の意味付けが広範な支持を得られる程度には当時の目標を与える権威と、それに勤勉に従う民衆との関係は危うい状況にあったのだとも考えられる。さらに、ここからは、そのような権威と民衆の関係を塗り替えるポテンシャルを持っていたからこそ、当時の日本政府が大本教を危険視していたことがうかがえるかもしれない。

◆まとめ

今回は、出口なおの社会批判が、どのような当時の民衆の内面的な問題から現れてきたのかを考えた。そして、その問題の起源について、筆者は「勤勉さ」がそもそも「目標を定立する」という行為と相性が悪いのではないかと考察した。そして、筆者の見立てによれば、当時の民衆はその相性の悪さを民衆自身の側で解決するのではなく、権威とされる他者に「目標を定立する」という行為を仮託することで乗り切ろうとした。しかし、そうして構築された関係性の中で、民衆は自身を過剰に抑圧してしまった。そこからその抑圧に耐えきれなくなった民衆は、「神がかり」によって世界を解釈的にも実際的にも塗り替えようとしたのではないだろうか。

本連載で見てきたように、勤勉な人々は、その勤勉さによって、自分たちにとって不利な現実を、結果的にであるとはいえ全力で肯定してしまうときがある。そのとき、勤勉さはその持ち主を追い詰める呪い以外の何物でもなくなるのである。ところで、現代の私たちも、自分たちにとって不利な現実を、昔の勤勉な人々のように、結果的に全力で肯定してしまっていることはないだろうか。権威ある他者に頼りたくなってしまう自分たちの心性を警戒しながら、今一度そのことについて考えるべきときが来ているのかもしれない。

【註釈】
(註1)
今日の人権意識に照らすと不適切と思われる表現だが、当時の時代背景を考慮し、著作よりそのまま引用した。

【執筆者プロフィール】
竹宮猿麿(Sarumaro TAKEMIYA,@supply1350
1994年生まれ。同人サークル〈抒情歌〉所属。サークルでは機関誌『GRATIA』を年2回発行し、文学フリマ東京を中心に頒布している。最近の十代の若者がどのようなサブカルチャーに触れてどのような感情を催しているのかに関心を持っている。