『ラカンはこう読め!』:〈大文字の他者〉とは何者か【山下泰春の「入門書」入門(第8回)】


◆何となく、気まずい……

皆さんはこんな経験をしたことがないだろうか。例えば、あまり親しくはない人と二人で時間を潰さなくてはならなくなり、会話を試みようとするのだが、それも長くは続かず、沈黙が訪れて何となく気まずい空気になったことや、誰もいないはずの部屋で一人、飲み物をうっかりこぼしてしまい、何となく「あちゃ~」と罪悪感めいた感覚に陥ったりしたこと、等。つまり、特定の「誰か」に対する申し訳なさ(前者ではそれもあるかもしれない)や、実利的な意味での損失(こちらは後者であるかもしれない)というよりも、もっと漠然とした「誰か」に対する感情を覚えたことはないだろうか。

ジャック・ラカンという精神分析家が〈大文字の他者〉という概念で捉えようとしたのは、まさにそうした漠然とした「誰か」が私たちを見ており、かつ私たちの行為に対して価値判断をしているかのような存在である。この〈大文字の他者〉という存在は、私たちの想像上のものであるにもかかわらず、それでいて私たちの行為の基盤となる秩序のことを指している(註1)。だから、上記で挙げた例、つまり会話があまり続かなかったこと、あるいは飲み物をこぼしてしまったことは、この〈大文字の他者〉に見られてしまったと私たちが感じるがゆえに、何となく申し訳ないという感覚に陥るのである。

いきなり難解な話をしてしまったかもしれない。が、イメージは掴めたであろうか。今回紹介する「精神分析」という分野は、端的に言えば私たちの日常で無意識に従っているルールや秩序について明らかにしようとするものである、と言える。そして、その精神分析の親玉の一人と見なされているジャック・ラカンという精神分析家について、非常に分かりやすい例やたとえ話を交えながら解説しているのが、現代思想の寵児スラヴォイ・ジジェクの『ラカンはこう読め!』という本である(註2)。

◆現実界・象徴界・想像界

実際、ラカンは非常に難解で、私も友人から「ラカンは分からん」とか「ラカンはアカン」みたいな、ギャグになっているようななっていないような捨て台詞を聞いたことがある。さらに、正直言って彼の主著である(とされている)『エクリ』も、ほとんど何が書いてあるのか私には分かったものではない(もし分かる人がいたら教えて欲しい)。だが、それでもなおラカンに関する本が現在でも定期的に出版され、今なお生き続けているのには、ラカンが作り上げた理論にはとてつもない強度があるからだろう。

例えば、彼が生み出した「シェーマRSI」は、私たちが誰かとコミュニケーションを行う際に潜んでいる様々な前提あるいは規則を説明するための図式だが、これをジジェクはチェスで譬えて見せる。つまり、チェスをする際に私たちが従わなければならない規則が〈象徴界〉であり、それは例えば「騎士(ナイト)」の駒がどういう動きができるか、といった形で定義される。一方、〈想像界〉は、チェスの駒はどれもふさわしい名前と性格付けがなされている(騎士であれば馬の形、というように)。これは代替可能であり、私たちは「騎士」と呼ぶ代わりに「使者」とか「馬」と呼んでもよい。実際、騎士と同じ動き方をする将棋では「桂馬」として機能している。最後に〈現実界〉は、チェスの進行そのものとは関係なく、外部からもたらされる状況のことを指している。プレーヤーの心を乱し、ゲームを中断させるような妨害などがそれだ。

(シェーマRSI。”Seminar XXII, R.S.I.”より筆者が作成。基本的に私たちは想像界と象徴界間の領域にいるが、現実界は言語化できない〈物 das Ding〉として規定されている。)

ラカンがこの図で説明しようとしているのは、精神病者はこれらの界同士の接続がうまく機能していないから症状を発症する、ということである。例えばジジェクは、強迫神経症者は〈現実界〉が闖入するのを極端に恐れるため、集団の中でひっきりなしに喋り続けると述べる。それはつまり、そうでもしないと気まずい沈黙が支配して、集団内部の緊張が爆発しかねないと考えるからだ。

以上がシェーマRSIについての素描だが、ここで注目しておくべきこととして、最初に触れた〈大文字の他者〉(=図の右下の大文字のA)と、チェスのルールと述べた「象徴界」(=同じく図右下の斜体のS)が同じ領域に属しているということだ。最後に、この〈大文字の他者〉についてジジェクが、またしても私たちの身近な出来事を例に挙げながら述べている箇所があるため、それを紹介して終わりにしよう。

◆〈大文字の他者〉は私の代わりに泣き、笑う

読者の中に、映画でもテレビドラマでもアニメでも、後で見るために「溜め撮り」をしている人(もしくは友人)はいるだろうか。そういう人は大抵「平日は仕事で忙しいから、土日で一気に観るため」にそれらを録画している。だが実際に観る時間はなく、延々と「溜め」続ける人も少なくはないのではないだろうか(註3)。そして、好きな作品がいつでも観れることに安心し、結局はそれを観ないのである(ちなみに私の友人にも一人、アニメの1クール全ての作品を観ている人がいたが、途中で体を崩してからは、溜めたまま観なくなったと言う)。

こうしたおかしな安心感についてジジェクは〈大文字の他者〉という概念を使って説明する。つまり、録画機器が、私のために私の代わりに映画を観てくれるのである。ここでは録画機器が〈大文字の他者〉を体現している(註4)。その〈大文字の他者〉は、私たちの貴重な時間を無駄にしないために、私の代わりにその作品を受動的に楽しんでくれるのである……。

ラカンが用いる述語は、今回取り上げた〈大文字の他者〉や〈象徴界〉だけにとどまらず、〈対象α〉や〈享楽〉など、他にも数多く存在する。さらに、ジジェクはカントやヘーゲルなどのいわゆるドイツ観念論にも造詣が深く、ラカンの述語をドイツ観念論との比較において説明することも珍しくない(例えば『否定的なもののもとへの滞留』などは、まさにカントとヘーゲルとラカンの思想的交錯について書いている)。だが、『ラカンはこう読め!』に関して言えば、そうした鳴りは潜めている(註5)。そのため本書は、ラカンの精神分析のみならず、他の諸哲学との橋渡しとしても非常に耐久性のある本だろう。

【註釈】
(註1)
ちなみに何故、〈単なる〉他者ではなく〈大文字の〉他者なのか。それはラカンが「他者」という単語の頭文字を大文字で書いた(Autre)からである。そして、それに呼応するように〈小文字の他者〉というのも存在する。こちらは小文字で書かれた他者(autre)のことで、現実的な、特定の相手を指している。

(註2)
ただし、ラカンに対する批判も数多く存在する。例えば、同じくフランスの哲学者ジャック・デリダは、『精神分析の抵抗』(1996)において、ラカンに対する批判を三つの要点にまとめて説明している。すなわち、①ラカンにおける死の問題、②精神分析を受けたことの有無に対するラカンの態度、③精神分析の支配的な他者という三つである。また、精神分析にも様々な学派があり、とりわけ現代の精神医療では精神分析に対する批判も根強く存在する。さらに付言すれば、臨床家としてのラカンに対する批判(とりわけ、彼が行っていた「短時間セッション」に対して)もあり、その理論的難解さだけにとどまらず、現代でも問題含みの思想家であることは留意しておくべきだろう。

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(この書の第二論文においてデリダはラカン批判を展開する。ただしこちらも難解である。)

(註3)
似たような現象は、いわゆる「積みゲー」を多く抱えている人についても言えるだろう。

(註4)
この記事の1節で私は〈大文字の他者〉を(簡略化するために)想像上のものと述べたが、それは特定のものに人格化あるいは具現化されることもある(『ラカンはこう読め!』P.27~8を参照)。例えば、自らの学習達成度を確認するために、ぬいぐるみを生徒に見立てて一人で授業を行う学生があるが、それは言うまでもなくその学生が、単なるぬいぐるみを生徒であると想像し、教師-生徒という規則を備えた〈大文字の他者〉として機能させているのである。そして、その学生がぬいぐるみを学生と信じ、その規則に従って行動する限り、〈大文字の他者〉は現実になるのである。

(註5)
強いて言うなら、ニーチェの「末人」について学んでいれば、現代のVR文化についての視座が得られるだろうと思う。つまり、「現実でもないにもかかわらず現実として体験される」ヴァーチャル・リアリティの台頭は、「誰もが平等に楽しめるように」という末人的要求の必然的帰結であるとジジェクは述べているのである。

[記事作成者:山下泰春]