【ブックレビュー】私たちは何を「怖い」と思うか?:『恐怖の哲学』について


◆トラウマのカナブン

突然だが、私は昔からカナブンが怖い。そう、あの甲虫類の、カナブンである。カブトムシやクワガタなどの他の虫は平気なのだが、カナブンだけはどうしても受け付けない。気持ち悪いとかではなく、ただ怖いのだ。少なくとも最近では私の周囲ではあまり見かけなくなったが、昔は公園で虫捕りをしていたときにはよく見かけていて、その度に内心怯えながら距離を取ったものだった。

私がカナブンを極度に恐れるようになったのは、私が幼少期の頃にちょっとしたトラウマを植え付けられたからで、それ以後は当時住んでいた団地の網戸にカナブンが飛んで来る度に一人で震えていた。その時にトラウマを植え付けたカナブンには当然悪意もへったくれもない(と思う)のだが、その出来事は未だに私の心にそれなりの傷を残している。

言うまでもなく、これは私がなぜカナブンを怖いと思うに至ったのか、という説明だ。では、そもそも何かを「怖い」と考えることは一体どういうことだろうか。そうした問いについて根本的に考えたのが、『恐怖の哲学』という書である。

◆『恐怖の哲学』について

この本の大まかな内容について要約すると、私のカナブンに対するそれのような、ある意味根源的な「恐怖」体験(これを著者の戸田山は「アラコワイキャー体験」と呼ぶ)を端緒に、私たちが「恐怖」を覚えるということはどういうことか、ということを科学的に追究したものである、と言える。私たちはなぜ「恐怖」を覚えるのか、また「恐怖」を覚えるとはどういうことか、そして「恐怖」を覚えるとき私たちの身体では何が起こっているのか、といったことを、哲学や心理学、さらには生物学や脳科学などの知見を借りながら明らかにしていく。

また、彼は「恐怖」のそうした学術的な側面だけでなく、いわゆる「ホラー」と定義される様々な作品(とりわけSFやホラー映画などを中心に)についても、それらがなぜ私たちの恐怖を喚起するのか、という点に着目しながら詳述してもいる。例えば『ジョーズ』は、サメの全体像が決して出てこないにもかかわらず、私たちがサメの一部(ヒレやギザギザの歯など)を表象できてしまうがために、たとえサメが目の前にいなくてもそれを怖がることができる、といった具合に。

以上が『恐怖の哲学』の大まかな粗筋ということにはなるが、この書の面白さはそれだけではない。戸田山はさらにこの書において、私たちが日ごろ感じる恐怖の「感じ」、つまり意識の「質」についても唯物論的立場から説明しようと試みる。そこで避けては通れない問題が、哲学者デイヴィッド・チャーマーズが提唱した「意識のハードプロブレム」、さらにはそれを説明するために彼が用いる「哲学的ゾンビ」という仮説である。戸田山は本書の最後にこれらの問題について取り組むことになる。

◆「ホラー」を知覚する意識とは

「意識のハードプロブレム」ないしは「哲学的ゾンビ」についての説明はここでは割愛するが、彼はそれらの問題について、ジェシー・プリンツという脳科学者の提唱する「AIR理論(attended intermediate-level representations、注意の的となっている中間レベルの表象)」を手掛かりに、意識のそうした問いを立て直す。こちらについても詳しくは是非本書にあたって頂きたいが、戸田山の主張を一言で要約すれば次のようになる。つまり、現状においてはAIR理論を用いれば意識と脳についてのある程度の相関関係は導き出すことが可能であることが示唆される、というものである。

ともあれ、私たちが日ごろ感じる「恐怖」という心の様相の一つをきっかけに、身体・脳・神経などの次元から総合的に思考する本書の戸田山の姿勢は、「ホラー」という人間の創作物についての理解の一助となり得るものであると言えるだろう。というのも、それは彼が「ホラーは、恐怖を扱った物語というより、恐怖の適切さと不適切さをめぐる物語」と本書で述べるとき、人がどのように「恐怖」を感じうるかについての方針を示していることに他ならないからだ。

最後に宣伝(?)になるが、当会副代表の市川遊佐が『アレ』Vol.6で執筆した「食事と出会う時、食事を手放す時」という論考は、「味覚」をきっかけに人間の抱く感覚の質の比較検討を行っているという点で、『恐怖の哲学』とはまた別の方法で人間存在にアプローチしていると言える。こちらは分子生物学および脳科学を基調としたものだが、本記事を執筆する上でいくつか参考にさせて頂いた。可能であれば、是非ご一読頂ければ幸いである。

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[記事作成者:山下泰春]