『ドゥルーズ哲学のエッセンス』:人文学の役割とは?【山下泰春の「入門書」入門(第11回)】


◆頭の良い人は複雑な問題を単純化して伝える「だけ」か?

しばしば「複雑な問題を単純化して考える/伝える」ことは「頭の良い人」の特徴だ、とよく言われる。確かにそれは、一方では事実だろう。概念に振り回され、中身を伴わない言葉を振りかざす人を見るたびに、「この人は消化不良を起こしているんだろうなあ」と思う半面、自分自身もそういった事態に陥っていないかを考えたりする。他方で、「複雑な問題を複雑なまま考えること」もまた、頭の良い人の特徴でもあったりする。過度な単純化は、「良い/悪い」や「敵/味方」といった究極的なものの見方に陥り、事態を捉え損なうことに繋がるからだ。

そうした「単純/複雑」問題に関して、哲学者のH.U.グンブレヒト(1948~)は面白い意見を述べている。彼は、広い意味での人文学が果たす役割は、「危険を伴う思考(das riskante Denken)」の実践という側面にあると述べている。これはどういうことか。彼は1988年に、フランスの哲学者であるジャック・デリダがとあるドイツの大学に客員教授として招聘されたときのエピソードを紹介している。奇しくも1988年は、ドイツ20世紀最大の哲学者として知られる、マルティン・ハイデガーのナチス関与に関する伝記的な事実が明るみになった年であり、世界的な規模で論争を生んだ年だった。そうした中、デリダがハイデガーについて「彼は20世紀最大の哲学者だ」と、ふと口に出したときに、とある学生が「彼がナチス・イデオロギーに加担していたことをご存知ないのですか? それでもハイデガーは20世紀最大の哲学者と呼べるんでしょうか?」と質問を差し挟んだ。それに対してデリダは、次のように答えたのだった。

親愛なる若き友よ(Mon cher jeune ami)、もちろん私はハイデガーが15年間ナチ党員だったことを知っています。しかし、それは知的な関心をそそる問題ではありません――残念ながら彼がナチ党員だったのは事実ですが。それに反して、知的な関心をそそる問題とはこのようなものです。つまり、ハイデガーは国家社会主義に巻き込まれることなしに20世紀最大の哲学者たり得たのでしょうか、という問題です。(Gumbrecht 2015: 23-4)

グンブレヒト自身は、その問いはイエスであり、もしハイデガーがナチスに加担していなければもっと良い哲学者になっていたと思っていると述べている。ともあれ、広い意味での人文学が「危険を伴う思考」に挑戦し続けること、そして同時にそのような挑戦が可能となる場所が用意されているということ――それをグンブレヒトは大学という場に求めた――が必要だということは、コロナ禍が続く昨今の情勢下においても変わらないことではないだろうか。

もちろん、「危険を伴う」と形容しているのは、それが常に単純化される恐れがあるからだ。上記のデリダの発言によって、例えば「デリダはハイデガーのナチス加担を認めたのだ」というような単純な理解がなされる可能性もある(それはデリダが言う「誤配」ではないことは確かだ)。それにもかかわらず、「危険を伴う思考」が必要な理由とは、何も人文学者たちの知的な楽しみのためだけにあるのではない。上記のような問いを生み出すことは、社会の取り得る選択肢を増やすことにも繋がるのだ、とグンブレヒトは言う。だから例えば哲学についてよく言われる、「それが役に立つのか?」というような問いに対しては、「そもそも役に立つとは一体何だろうか? あるいは、役に立たなければ哲学は不可能なのか?」と聞き返すことが、「危険を伴う思考」の別の例であると言えるだろう。

◆ドゥルーズの「入門書」?

さて、導入が長くなってしまったが、今回はあえて、難解さの塊のような哲学者についての入門書を紹介しようと思う。それはつまり、ジル・ドゥルーズ(1925~1995)についてだ。正直言って、彼についての「入門書」と呼べるようなものはほとんどないと言っていいだろう(もしかしたら他にもあるのかもしれない)。私自身、ドゥルーズと彼の盟友であるフェリックス・ガタリ(1930~1992)の共著として、そして主著としても知られる『アンチ・オイディプス――資本主義と分裂病』(1972)を最初読んだとき、その意味の分からなさに思わず本を(物理的に)投げかけたこともあり、長らくの間敬遠していた。次第に友人から耳学問でドゥルーズについて聞いて、やっと少しは理解できた(ような気がした)。だから、もしもドゥルーズについて読んでおり、少しは噛み砕いて説明してくれる友人がいるならば、その人に聞くのが最も良いだろう(実際、ドゥルーズ&ガタリも「友情」の持つ力を認めている)。

しかし、そんな頭脳明晰な友人が身近にいない(もしくはそれだけでは不十分だと思われる)人は、ライダー・デューの『ドゥルーズ哲学のエッセンス――思考の逃走線を求めて』(2007=2009,中山元(訳),新曜社)を是非ともオススメする。多くのドゥルーズ入門書(もちろん全部が全部ではない)は極めてレトリックに富んでおり、それがしばしば難解さを生み出し、ドゥルーズに入門する前に破門させられてしまうことが多いのだが、その点、デューのこの本は、そういったレトリックを用いずに、ドゥルーズ哲学について端的に説明してくれているため、混乱させられることが少ない。それはおそらく、(厳密には少し異なるが)ドゥルーズ&ガタリ的な哲学的概念(「器官なき身体」や「生成変化」など)を、極力使わずに説明してくれているからだろう。それらの語句が登場するにしても、きちんと文脈を押さえた上で出てくるため、例えば「『器官なき身体』とはAという哲学者の言うBだ、あるいはCという画家が描いたDの絵で展開された主題と一緒だ」みたいな、分かったような分からないような事態に陥らなくて済む。

おそらく、ここまでドゥルーズ哲学について分かりやすく解説した本も極めて珍しいだろう。というのも、この本は彼の思考を「いかに哲学史において位置付けることが可能か?」ということについてよくまとめた本であると同時に、ドゥルーズ哲学の核を「内在の原理」と「表象の批判」という二点から解説した本だからである。デューは、彼の哲学的な発想の起源を、古代ギリシャの哲学者であるプラトンに見て取り、それから以降の哲学者たちの思想との格闘の軌跡として、ドゥルーズの哲学を説明している(例えば、この「入門書」入門でも取り上げたカントやニーチェ、フッサールやマルクスなどのドイツ哲学や、また、それらに比べるとほんのごく僅かだが、バタイユやラカンなどの思想家にも言及している)。そのため、主にドゥルーズ初期から中期(ガタリとの共著を書き始めた時期)への移行の過程と、彼の後期の美学的関心(ライプニッツ論や映画論など)との接続が明確になっている。文庫や新書ではないという点が惜しいが、これ以上のドゥルーズについての入門書は、もしかしたら他にはないかもしれない。過去にドゥルーズから破門させられた人は、この本を通じて「再」入門してみるといいだろう。

◆「安定した主体」を揺さぶる哲学

ここからは、デューのドゥルーズ哲学の解釈について見ていこう。先程も紹介したように、彼によるとドゥルーズ哲学の核は「内在の原理」と「表象の批判」の二点に集約される。なぜこの二点なのか。それは、両者が「主体」の形成に大きく関わっているからだ。平たく言えば「表象」とは、「人間がいかに世界を認識するか」という能力のことである一方で、「内在」とは人間の心や情動、思考といった、いわば「人間の内側で起きる活動のこと」を指している。前者が「人間にとって世界がどう現れてくるか」ということを考察する、言い換えれば世界を人間の認識の元に再現することが問題になる一方、後者は心や情動、思考といった要素を、「世界との関わりの内でいかにして形成していくか」というプロセスが問題となる。そして既に触れたように、ドゥルーズは「内在の原理」を自身の哲学の中核に据え、表象の哲学を批判した。それは一体なぜか。

その理由は、「表象」のモデルが、主体と客体である世界との間に、強い相関関係を作り出すためである。つまり、このモデルにおいて主体は、客体である世界を再現する能力を備えただけの存在、言い換えれば客体に従属する存在になってしまう。ドゥルーズは、そうではない自由で創造的な主体を構想する。デューは暫定的に、その主体を〈他なる主体 alternative subject〉と呼称している。

〈他なる主体〉は、自己認識によってではなく、みずからの行動のうちに内在することによって定義される。ドゥルーズはこの〈他なる主体〉をまず、萌芽的な主体(シュジェ・ラルヴェール)と呼び、次に「ノマド的な主体」と呼び、最後に『カフカ』と『千のプラトー』では、「生成」と呼ぶ。(デュー 2007=2009: 25)

したがって、ドゥルーズの哲学は、このような「他なる主体」の変遷によって特徴付けられていると言えるだろう。「安定した同一的な主体」というような幻想を打ち砕くために、彼はヒュームの情動論、ベルクソンの差異論、スピノザの実体論などを援用し、自身の哲学の核としていったのである。そのため厳密には異なるものの、「器官なき身体」や「セリー(列)」といった哲学的概念も、こうした「内在の原理」の発展として考えることができる。それらはつまり、「安定した同一的な主体」から逃れるための、ないしはそれを揺さぶるための、ドゥルーズの方法論なのだ。

また、上述した「相関主義批判」は、最近の哲学的潮流である「思弁的実在論」の提唱者たちにも通じる問題設定である(註1)。実際、L.ブライアントらの編著による『思弁的転回』(2011)でも、その分野の先駆者としてドゥルーズが挙げられている。

ドゥルーズは、フェリックス・ガタリとの共著を含め、この分野〔引用者註=思弁的唯物論〕の先駆者であった。1970年代から1980年代にかけて、ドゥルーズとガタリはこれらの重大なテクストの中で、非主観的な領域である「生成」の存在論的な展望を提示し、主体と思考は単にこれらの主要な存在論的運動の最終的な残余物に過ぎないことを明らかにした。ドゥルーズとガタリは、概念体系の否定的な限界に立ち向かうのではなく、伝統的な存在論の廃墟から、肯定的な存在論的なビジョンを構築したのである。ドゥルーズが果たして相関主義から完全に脱却できたかどうかについてはまだ議論の余地が大いにあるが、彼の〔哲学的〕プロジェクトが大陸哲学の伝統的なカンティアン的限界を超えようとしたものであったことは間違いない。(Bryant et al. 2011: 4-5)

個人的には、こうした思弁的実在論たちが主張する「新しさ」がどこにあるのか未だに理解できていないところがあるが、ともあれ、そうした哲学の動向を理解する上でも、ドゥルーズの哲学が重要であることは間違いないだろう。彼の著書が本邦で翻訳され始めてからおよそ半世紀が経過するが、今改めて彼の哲学に触れてみるのも、面白いかもしれない。

◆おわりに

今回の記事の冒頭では、グンブレヒトの「危険を伴う思考」について紹介した。それは一方では「単純な理解」として処理されてしまう危険を指していたが、ここではもう一つの可能性として、「無理解のまま終わる」こともまた一つの危険性であるということを指摘しておきたい。誰しもが無限の読書時間を持っているわけではない。読書をすることは(とりわけ、難解な専門書はよりいっそう)精神の集中を伴う。だからこそ、そうした負担を少しでも減らすために、そもそも「入門書」というものがあるのではないだろうか。専門用語を、その内実を検討しないままそのまま使用し、振りかざすことの危険性について、今一度「知的な営み」を行っている人たちは考えた方がいいのではないだろうか。

最後に、文庫や新書で手に入るドゥルーズ(&ガタリ)の入門書についても、少しだけだが触れておきたい。とはいえ、多くはやはり「ドゥルーズ語」の直訳のようなものが多いため、もしも可能であれば、実際に手に取って確認してから購読することをオススメする。以下は編集部内で検討した上での列挙だが、良くも悪くも「分かりやすかった/分かりづらかった」という意見が二極化したためである。

まず、ドゥルーズ&ガタリの訳者としても知られる、宇野邦一による『ドゥルーズ――流動の哲学』(2020,講談社)は、ドゥルーズの伝記的側面について扱いつつ、彼の提案した諸概念について検討を加えている本だ。ドゥルーズの通史を抑える上では有益かもしれないが、その内容については意見が分かれるところが多いため、取り扱いは慎重に行うべきだろう。個人的には、既存のドゥルーズ読者のための本と思わなくもない。

次に、ドゥルーズ&ガタリ最後の共著である『哲学とは何か』(1991=2012,財津理(訳),河出書房新社)も候補として挙がった。ただし、これもまた賛否両論で、一部は「是非とも読むべき」と述べる者がいる一方で、「10ページも読めなくて絶望した」と嘆く者もいたりするので、何とも言い難い本ではある。こちらも個人的には、既にある程度「現代思想」的な言い回しに慣れ親しんでいる人にとっては分かりやすいのかもしれないが、これからドゥルーズ&ガタリの原著に挑戦しようという気概のある人以外には、あまりオススメはできない(逆に言えば、いきなり『アンチ・オイディプス』や『千のプラトー』に挑戦するよりはこの本の方がいいと思う)。

最後に、これは残念ながら文庫や新書ではないが(さらに言えばドゥルーズの入門書でもないが)、フェリックス・ガタリの『闘走機械』(1986=1996,杉村昌昭(訳),松籟社)を、個人的に推しておきたい。この本は、ガタリの1980年から1985年にかけての論文や講演をまとめたもので、時事問題について積極的に発信しているガタリの格闘の記録が収められている。また、『アレ』Vol.6でガタリと昆虫食について扱った記事を編集しているときにも、かなり参考になった本でもある。というのも、巻末に載っている「スキゾ分析の用語解説」は、ドゥルーズ&ガタリを読み解く上で抑えておくべき諸概念の説明が端的に書かれているからだ(これは元々、ガタリの主著の一つである『分子革命』の英訳版の版元から依頼されて作ったものらしい)。例えば「領土・脱領土化・再領土化」や「リゾーム」などが、それなりに分かりやすく書かれている。

【註釈】
(註1)
「思弁的実在論」の提唱者の一人として知られるグレアム・ハーマン(2018)によれば、もともとは、2007年4月27日にロンドン大学のゴールドスミス・カレッジで行われたワークショップの名前が「思弁的実在論」だった(Harman 2018)。その名称は、同じく「思弁的実在論」の提唱者の一人であるレイ・ブラシエが、このイベントの直前になり、急遽付けたものであり、ハーマンを含む他の提唱者たち(クァンタン・メイヤスーおよびイアン・ハミルトン・グラント)との折衷案として名付けられたものであった。最初は、メイヤスーが自身の哲学を表す標語として「思弁的唯物論」を掲げていたため、そちらが選ばれる可能性もあったが、ハーマン自身は反物質主義的な立場を掲げていたために、結果としてブラシエが折衷案として「思弁的実在論」という名称を付けるに至ったとされる。

その思想をかなり強引にまとめるとすれば、「人間がいなくてもモノ自体は存在し、モノ自体の世界を構築している」ことを思考の上で行う思想である。つまり、人間の認識論の優位性(=人間のみが世界を認識する)に対する批判であり、人間が存在しない時代および、人間の絶滅以後の時代における哲学を構想する方向へと向かうのだが、そうした可能性自体を想定できるのもまた人間であり、結局のところ、彼らの「相関主義批判」がどこを目指しているのかは未だ不明瞭な部分が多い。例えばハーマンのデビュー作であるハイデガー批判の書である『道具-存在』(2002)において、彼はハイデガーの哲学を「アクセスの哲学」と呼称し、ハイデガーの「現存在」がいかに世界にアクセス(接近)するかにしか関心がなく、「それ自体としての世界」に目を向けないことを批判するが、相関主義を脱却するために、認識主体である存在者を取り払ったり、絶滅させたりすることで純真無垢な「世界」なるものが得られる訳ではないだろう。ただし、この思弁的実在論者の論者たちの間ですら、互いに一致しない点が多く、既に早くも「思弁的実在論以後」が語られている昨今だが、その不一致の点を少しだけ見ておこう。

まず、メイヤスーの「思弁的唯物論」という立場については、ハーマンからすれば不可能な立場であるとして批判される。ハーマンによれば、メイヤスーが相関主義を「弱い相関主義」(=心の外にあるものは認識できないが、思考は可能であるとする立場)と「強い相関主義」(=心の外には何も存在せず、思考することすら不可能であるとする立場)の二つに分類し、彼が後者の立場に依拠していることを指摘する。つまり、メイヤスー的な「強い相関主義」の立場では、必ずしも外部を思考することができないからといって、存在し得ないとは限らないという論理を組み立てるのである。ハーマンはこうしたメイヤスーの思想を「観念論から逃れられていない」と断定している(Harman 2018)。

さらに、「思弁的実在論」の名称を名付けた当のブラシエ自身は、「思弁的実在論」という哲学的潮流があることを否定しており(Brassier 2011)、彼の弟子であるピーター・ワルフェンデールとともに「オブジェクト指向存在論(Object-Oriented Ontology)」を精緻化させる方へ取り組んでいる。「オブジェクト指向存在論」もまた、ハーマンによる哲学的プロジェクトの一環として考えられているが、ブラシエおよびワルフェンデールは、ハーマンによる「オブジェクト指向」の哲学は知的には全く無意味であると批判している(Harman 2018; Wolfendale 2014)。

最後に、イアン・ハミルトン・グラントは他の三名と比較すると、極めて独自の立場にいる。彼は、ドイツの哲学者であるシェリングの自然哲学に依拠しながら、カント的な二世界的存在論から逃れるためには、自然哲学のようなものを追求することによってのみ可能であると説く。ハーマンはグラントの立場を「生気論者の観念論(Vitalist Idealism)」と呼んでおり、彼は「人間がどのようにして世界についての知識を得るか、というような永遠の病理から逃れるために、世界そのものについて思考する哲学へ戻るよう望んでいる」と述べる(Harman 2018)。グラントは、世界そのものについて思考するためには、物理学や化学の法則、果ては認知科学や神経哲学のような科学的言説に依ってはならないと考え、自然を全てのものを還元するような基盤ではなく、全てのものが生産される基盤であると捉えている。

【参考文献】
・Brassier, Ray, 4 March 2011, “I am an nihilist because I still believe in truth,” interviewed by Rychter, Marcin, Kronos, (Currently not viewable, http://kronos.org.pl/index.php?23151,896, but reprinted in, https://cengizerdem.wordpress.com/2011/03/05/ray-brassier-interviewed-by-marcin-rychte-r-i-am-a-nihilist-because-i-still-believe-in-truth/).
・Bryant, Levi, Srnicek, Nick and Harman, Graham (eds.), 2011, The Speculative Turn: Continental Materialism and Realism, Melbourne: Re-Press.
・Gumbrecht, H. U., 2015, Die ewige Krise der Geisteswissenschaften – und wo ist ein Ende in Sicht?: Festvortrag im Rahmen der HRK-Jahresversammlung am 11. Mai 2015 in Kaiserslautern, hrsg. von Hochschulrektorenkonferenz, Bonn, (abgerufen am 04. Juni, 2020, https://www.hrk.de/hrk/bibliothek/online-katalog/titel/die-ewige-krise-der-geisteswissenschaften-und-wo-ist-ein-ende-in-sicht-festvortrag-im-rahmen-de/?tx_hrklibrary_library[view]=single&cHash=b1bd5f5a54ce052849c187147f813aad).
・Harman, Graham, 2018, Speculative Realism: An Introduction, Cambridge, Polity.
・Wolfendale, Peter, 2014, Object-Oriented Philosophy: The Noumenon’s New Clothes, with a Postscript by Brassier, Ray, Zurich: Urbanomic Media Ltd.