【コレ!対談(2)】脱線に抵抗する方法とは:多様な欲望を簡潔に描く(前編)


〈アレ★Club〉のメンバーがゲストの方をお招きしてアレやコレやと熱論を交わし合っていく「コレ!対談」。

今回は〈アレ★Club〉の副代表である市川遊佐が『アレ』Vol.4に載せたコラム「さあ、人間を超え出よう!」について、市川の友人である羊谷知嘉さん(@hail2you_cameo)から感想をいただきました。羊谷さんは『Engineerism』というサイトで分野横断的な批評活動や創作活動をされてきた方で、最近は、テクノロジーとアートの融合という観点から最新のゲームや『Overwatch』などe-Sportsの動向に関心を持たれています。その羊谷さんと市川との会話を掲載することで、前掲のコラムにおいて読者の方に市川が伝えたかったことがよりよく伝えられると考えたため、ここにそのやりとりを掲載いたします。

★本日の対談者
羊谷知嘉(Engineerism主幹)×市川遊佐(アレ★Club副代表)

【対談者プロフィール】
羊谷知嘉(Chika Hitsujiya/@hail2you_cameo

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1988年生まれ、立教大学院文学研究科比較文明学専攻修了、京都在住。文芸同人誌の主宰と並行し、4年間にわたり哲学カフェを都内近郊で約30回におよび主催。仕事上のストレスと過労から約2年間ほど友人関係含め外界から心を完全に閉ざし、批評・表現活動を停止させていたが、無事フリーターに転生することで近頃ようやく覚醒を果たした。

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◆コトのはじまり

羊谷知嘉(以下、羊谷):
市川君が書いたコラムを読んだよ。面白かった。人間以外の動物は、人間が五感で受け取る情報よりもいろんな種類の情報を受け取って生きていることに着想を得て、そこから人間がこれから身体を改造したり進化したりすることを通じて他の動物のようにいろいろな情報を感覚できるようになる可能性を考えた話だったね。最近話題のシンギュラリティとかとは違うポスト人類を考えている話だと理解したよ。

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今回話題にされているコラムが掲載されている『アレ』Vol.4。

市川遊佐(以下、市川):
おお、ありがとうございます!

羊谷:
僕には第1から3章が一番面白く読めたよ。人間を欲望と認識の歴史的身体として捉えなおすコンセプトは僕も概ね共有しているし、細胞レベルの知識を使ってその視点を再構成するというのは、その方面の知識に僕が疎かったのもあって新鮮に感じた。ただ、前提として特に異論はないんだけど気になったところもあるから、そこについて感想を伝えてもいいかな?

市川:
ぜひぜひ! どこが不満だったか聞かせてほしい。それに、感想を直接言ってくれれば、その機会を活かして本文中ではうまく表現しきれなかった事柄とかについても説明できるしね。

◆「人間から超え出る」という問いの説明のバランス

羊谷:
じゃあ、はじめにテクニカルなところから。基本の問いの提起とその扱いについて疑問を感じざるをえなかったんだ。市川君はまず「なぜ私たちは人間を超え出たいか」という問いを提示したわけだけど、その過程には「筆者である市川君の体験や想い」と「バタイユの引用」くらいしか説明がなかったから、いまいちピンとこなかった。つまり、身体自体にはその特殊性に応じた制約があるのはわかるけど、それを超えるために人類はこれまで何をしてきたのかについての記述がほとんどなかったから、その渇望が僕自身にはないせいかあまりに個人的で漠然としたイメージでしかわからなかったんだよね。

市川:
あー、それはね、うん。書いていて後ろ髪を引かれた部分だよ。

羊谷:
人類が人間を超え出るためにやってきたことは多分過去にもいろいろあるはずなんだ。たとえば、道具の開発・使用は身体能力の外部化と拡張という意味ではそうだろうし、空想的な変身・変態願望は多くの原始的な風俗やサブカルチャーの想像力の源泉になっているし、人類が奇妙にも長いあいだ懸けている人形・ロボットへの情熱もそれと近いところがある。市川君も少し触れていたドラッグや酒、宗教儀式を通した非日常的体験への憧れとかはわかりやすくそうだね。

こうした関連分野との関係にはあまり触れなかったせいか、僕には市川君の問いのリアリティとそのディテールがあまり伝わってこなかった。つまり、市川君個人の想いとその熱量は頭ではわかったけど、僕、羊谷個人の感じ方とは少し距離があり、かつ、その橋渡しが文章中に少なかったこともあり、市川君の問いを自分事として受け止めて引き込まれはしなかったということ。やはり、個人的な想いを社会的な事柄に変換することは、文章作法としては大事なんじゃないかな。

まあ、紙幅の都合上、雑誌の構成順序からあとは察しろ的なアレもあったとは思うけどね(笑)

市川:
まさにおっしゃる通り、雑誌の構成上あまり文字数を多くできなかったというのもある。でもそれ以外にも理由はあったんだ。

とにかく、僕は自分の問いをいろんな人にも共有したかった。僕が自分の文章を「論考」ではなく「コラム」と銘打ったのもそれが大きな理由なんだ。『アレ』の読者は人文系の話題に詳しい人だけじゃないから、こうした文章を「論考」と銘打ってしまうとそうした言わば分野外の読者を身構えさせる危険性があった。

先行研究とかの話もいろいろやりたかったけど、羊谷君が挙げてくれた通り、僕の問いはいろんな分野にまたがり過ぎている。多分野の話をそれぞれ最低限でもしっかり説明していくとそれだけで本題に入るまでの文章が長くなってしまうし、かといって名前だけ挙げていくと他分野にまたがりすぎているがゆえに衒学的に見えてしまうのではという危惧があった。本題に入る前に読者を振り落としてしまうのは避けたかった。自分の問いをいろんな人にシェアするために、とにかく通読してもらえるような文章にしようと思ったんだ。

まあ、短い文章でも、過去の取り組みを網羅的にしっかり触れつつ、その上で僕が書いたような目的を達成することは、不可能ではないのかもしれない。でも、僕にはそれはできなかった。それが力不足だというなら、その批判は甘んじて受けるしかないなとは思う。

羊谷:
なるほどね。たしかに、人間の趣味嗜好において情報量の多いものと少ないものの差はかなり厳しいものとして横たわっている。たとえば、メロディラインと感傷的な歌詞を際立たせるためにそれ以外の面を削ぎ落したバラードが好きな人に、手数の多いドラミングと強い歪みを与えたギターサウンド、聴き触りの悪いシャウトを特徴とするメタルや、ハードスタイルと呼ばれる単調ながら力強くも大きく歪んだ高速の低音ビートが特徴のダンスミュージックを聴かせると、うるさい! と叫んで嫌悪感を剥き出しにしてすぐ消すよ、きっとね。反対に、うるさい音楽が好きな人にバラードのような曲を聴かせると10秒ともたないだろうね。退屈だから(笑)

文章を読むこともこれと同じで、自分が普段好んでいる情報量と大きくかけ離れた作品に触れたとき、読者の理解は好悪のどちらかに感情的に振り切れることがよくある。極端に少ないもの対しては「凄い!ボクでもわかる!わかりやすい!」、極端に多いものには「よくわかんね。知識自慢乙」という具合にね。

だから、僕の知的能力の限界として客観的な判断は下せないけど、他分野にまたがることは書かないという市川君の戦略はむしろ良かったかもしれない。というのも、情報量のバランス調整は作品の完成度、いかに愛されるかに深く関わっていて、デジタルゲームの世界でこの完成度1本槍で独自の地位を守っているのがSONY、つまりPS4専用タイトルなんだけど、まあ、この話は脱線必至だからいいや(笑)

市川:
そうそう、そういうことなんだよ。作品を幅広い相手に届ける時に必要な配慮の問題。これは難しいね。僕も脱線したい欲望を振り払って、あのコラムを書いたわけです(笑)

羊谷:
そうしたバランス調整について考えた上でなお考えると、それにしてもあのコラムはかなり「削ぎ落とした」ものになってるよね。

市川:
そうだと思う。そうしたのは、僕があのコラムで書いた問いが「うまく僕の希望が叶う形になるにせよならないにせよ、実証的な形で答えが出せる類のもの」だからだ。だから、僕の問いがシェアされていろんな人を巻き込むことができれば、そしてその人たちが実際にトライアル&エラーをしてくれれば、それで白黒付く。だから、文章の中で、概念レベルで正当性をしっかり確立させるという目的については、優先度を下げて今回は簡潔な説明以上には掘り下げないことにした。それでああいうバランスになったんだ。

◆既存の取り組みについての簡単なスタンス

羊谷:
なるほどね。で、ぶっちゃけ市川くんは既存の取り組みについてはどう思っているの?

市川:
僕は既存の取り組みの多くについて、端的に言えば不満だった。空想的な変身願望とかは往々にして文学や芸術の問題にズレていってしまって、実際に《この自分》がどう根本的に変身しうるのかについては、あまり注目されていないと感じた。同様に、人形やロボットに関する話も、サイボーグとかに関するものを除けば、あくまで「自分にとって美しく/善く見える対象」についての話が多いということが気になっていた。非日常的な体験については、そうした人々が体験する体験自体に対しての懐疑がいまひとつ足りないように見えた。人間は簡単に妄想の中に墜落するからね(※1)。そうした懐疑を失うことは、本当に自分から抜け出そうと真面目に取り組むことを裏切ることなのではないかと思った。

羊谷:
香港の人で、アプリ開発のプロダクトマネージャーをやっている知人がいるけど、彼も最初は比較的科学寄りの視点から非日常体験に関心をもって色々と調べていたのに、今は気とかオーラとかそういうふわっとした方向に流れちゃったな。非日常体験に強く惹かれるあまり、実体視し、自分の見解自体に対する批判的視点を失うのはわりとあることみたいだね。

(後編へ続く)

【注釈】
(※1)
それゆえに、禅やヨーガでは師という他者を修行において非常に重視する。

[記事作成者:市川遊佐&羊谷知嘉]