いかにして他者の死後の人格を認めるか:『SeaBed』における日記論


(アイキャッチ画像:©Paleontology,2016)

「受け入れようが拒絶しようが、賞賛されようが非難されようが、記憶されていようが忘れられていようが、過去はいつも私たちとともにある」(D・ローウェンサール『過去とは異郷の地』)

◆はじめに

私たちは、いずれ文字通りの意味で死に至るだろう。あるいは、誰かの死を経験するだろう。その時に私たちは、いかにしてその他者を受け止められるだろうか。あるいは逆に、誰かに受け止められたいと思うだろうか。特に、誰かにとってかけがえのない存在が亡くなった時、私たちはどのようにして、その死と向き合うべきだろうか。

そうした普遍的とも言える問いに対し、本稿で取り上げる『SeaBed』(2016)というノベルゲームは、「日記」というモチーフを手がかりにして、その問いに答えようとしている。そこで本稿では、マルセル・プルースト(1871~1922)およびヴァルター・ベンヤミン(1892~1940)の記憶論と日記論を軸に、日記がどのように「他者の死」を受け止めるメディアとして機能するか、ということについて考察を試みたい。

◆第一章:『SeaBed』について

まずは、この作品のあらすじについて簡単に紹介しよう。デザイン会社を営む水野佐知子(みずのさちこ)と、その恋人である貴呼(たかこ)は、幼馴染であり恋人同士であったが、二人とも何故お互いに別れることになったのかが分からない。貴呼の幻影に悩まされるようになった佐知子は、幼馴染であり精神科医である楢崎響(ならさきひびき)に相談を持ちかけ、旅行先で知り合った藤坂七重(ふじさかななえ)の経営する旅館へと向かう。一方の貴呼も、原因不明の記憶障害のために療養所で養生に努める。そして物語の核となっているのは、この佐知子と貴呼の二人の、四半世紀にも及ぶ交際の記憶である。そして序章の最後において、貴呼が死亡していることが明かされるものの、続く第一章冒頭で貴呼は元気にラジオ体操をしている……。

以上が体験版でも確認可能な大まかなあらすじではあるが、この作品に対して既存のカテゴリー(百合、ミステリー、旅行記、歴史、ホラーetc.)を当てはめようとすると、途端に実態がうまく掴めなくなってしまう。というのも、47万字という膨大な字数で紡がれるこの作品には、あまりにも多くの出来事が描かれ過ぎているからだ。だが、あえて無理を承知の上でこの作品を要約するなら、『SeaBed』はさながら百年後にやってきたプルーストの『失われた時を求めて』の如き、浩瀚な心理小説と言えるだろう。今、あえてプルーストの名を出したのは、この作品に通底している問題がまさに「記憶と時間」をめぐる考察だからである(註1)。もちろん、理由はそれだけに留まるものではないが、『SeaBed』には他にも随所にプルーストをはじめとする20世紀前半のヨーロッパ文学や音楽からのモチーフが散見される(註2)。そして、そのような主題群でもって描かれるのが、死後の生をどう捉えるか、という問題であり、佐知子が貴呼の死後、いかにして彼女の人格を認めるかという過程にこそ、本作の真髄が宿っていると言える(註3)

ただ、『SeaBed』については、そもそも言及がなされることがあまり多くはなかった。言及が完全になかった訳ではないものの、その多くは「物語の構成が複雑で謎が残る」といったものや、「日常描写の単調さ」をめぐる議論ばかりであり(註4)、作品の構成を整理し、作中の重要なモチーフを手がかりに、作品の独自性について論じるようなものは殆ど見当たらなかった(註5)。そこで筆者は、『SeaBed』を読み解く上で重要なモチーフの一つである日記に着目し、本作の最も重要な問題である「いかにして他者の死後の人格を認めるか」という問題について考えていきたい。

※以下の記述には『SeaBed』に関するネタバレが含まれています。もしこの作品をプレイされていない場合は、是非ともこの記事を読まずに作品をプレイされた方が、間違いなくこの作品を楽しめること請け合いです。なお、Nintendo Switch版の追加シナリオのネタバレの可否については、制作者の許可を取得済みです。

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https://ec.nintendo.com/JP/ja/titles/70010000017465

◆第二章:「意識的な記憶」と「無意識的な記憶」

「私たちの忘れてしまったものこそ、まさしく私たちにある人物を一番よく思い出させるものなのだ」(M・プルースト『失われた時を求めて』)

既に述べたように、日記は『SeaBed』を構成する上で最も重要なモチーフの一つである。ただし、最も矛盾に満ちており、最も解釈が難解なものであると言える。そこでまずは、作中に登場する第四章「居眠り佐知子」において展開される「意識的な記憶」および「無意識的な記憶」について確認し、次にプルーストの「意志的記憶」と「無意志的記憶」との比較検討を行う。その類似性を指摘した後に、次は『SeaBed』全体を通して流れている時間について正確な事実関係を読み解くことが不可能であることを確認した後、日記における時間論について見ていく。その手がかりとして、ベンヤミンの初期著作である「青春の形而上学」における日記論を参考にする。それにより、日記を書くことは、時間性からの解放行為であるとともに、創造的行為であることを示す。そして最後に、作中で展開される「物忘れの症状」について取り扱い、その症状を治すための方法として日記を「書く」ことについて更に考察を加える。予め結論を先取りしておくと、日記を書くこととは、キャラクターの個性を回復するための行為であり、死後の貴呼の人格を再形成する上で最も重要なファクターである。

ではまず、第四章「居眠り佐知子」において展開される「意識的な記憶」および「無意識的な記憶」という、楢崎が行った分類について確認しておこう。この分類は、作中ではたった一度しか出てこないものではあるものの、渡り鳥の半球睡眠の話、つまり佐知子と楢崎の関係性と相補的な関係にあるという点で重要な箇所である(註6)

「人は見たもの聞いたものをなんでも頭に蓄えて記憶している。しかし、思い出して思考に利用できる部分と、思い出しが不可能で思考に利用できない部分のふたつの記憶がある。それはわかる?」

「まあ、なんとなく」

「そのふたつを意識的な記憶と無意識的な記憶としてだね。どちらも同じ記憶であるのに、意識的な記憶は思考することができる。無意識的な記憶は思考することができない。調べていたのは、無意識的な記憶を思考する別の思考の存在を証明できるかという事なんだ」

前者を「思考することができる」もの、後者を「思考することができないもの」とする分類は、プルーストの「意志的記憶」および「無意志的記憶」にそれぞれ相当する。例えば鈴木隆美はプルーストの記憶論を次のように分類している。

プルーストは記憶を意志的なものと無意志的なものに分ける。通常の記憶は全て意志的なものである。それは知性的に過去を再構築するだけであり、そこで見出されるのは生気を欠き、くすんだ過去でしかない。なぜならば、知性がそこに介入し、論理的関係がないものを分断し、思考が慣れ親しんだものだけを見出し、整理してしまうため、一切の驚きが末梢されてしまうからである。……無意志的な記憶にあっては、知性、意志が介入していない分、生きられた過去がそのまま保存されている。そこには過去があるがままの姿で、すなわち知性が排除してしまう非論理的な繋がりが保存されている過去がある。(鈴木 2013: 72-3)

明らかに、この符号は偶然ではない(註7)。『SeaBed』ではそうした分類を踏まえた上で、無意識的な記憶について考える主体の存在証明への問いと突き進む。それはつまり、楢崎自身がいかにして存在するかという問いだけに留まらず、無意識的な記憶に位置付けられる、死後の貴呼の存在をいかにして存立させるかという問いにも関わってくる(註8)。そして、そのための手段として佐知子(および楢崎)は、日記を利用する。

日記とは、一言で言えば佐知子の「記憶そのもの」である。楢崎は日記を通じて貴呼に、別れてしまった佐知子という人格を思い出すためのヒントを提示する。終章において楢崎は、日記の役割を二つ提示する場面がある。それはつまり、「貴呼に記憶を持たせること」および「佐知子のバラバラになった貴呼の思い出をひとつにまとめること」である。日記を書くという行為については、佐知子はもともと書く習慣はなかったものの、TipsⅠ. 楢崎診療所「厨房」において、貴呼の発病後に書き始めたことが示唆されている。ただし、その日記が実在しているかは怪しい。楢崎がそれを適宜切り取ったり、また貴呼の筆跡で書かれたものがあったり(TipsⅠ. 楢崎診療所「寝室」)、さらには佐知子が Tips を除く日常描写において、日記の話を一切していないということもあるため、日記とは楢崎=佐知子が大事にしていたぬいぐるみの記憶、つまりは佐知子の無意識的記憶であると考えられる。

事実、序章「事務所の夜(献立決定プログラム)」において貴呼は「詩どころか、日記すらまともに書いたことないんだけど」と述べていたり(註9)、第三章「1981年11月07日」で貴呼は佐知子以外の筆跡を見て取っていたり(註10)、さらには終章「ぬいぐるみ」において貴呼が「あの破れていた手帳は楢崎のものなんじゃないの?」と楢崎に尋ねる場面で、楢崎はそれを否定しなかったりと、貴呼が発病後、佐知子がそれまでの貴呼との記憶を日記という形式で楢崎が取りまとめたものだからこそ、佐知子や貴呼の筆跡が入り混じるという事態になったと推測される。

◆第三章:日記の無時間性

「ある者が性格を有する場合、その者は常に同じことを経験する」(F・ニーチェ『善悪の彼岸』)

前章では、日記が佐知子の無意識的な記憶であることを確認した。続く本章では、その無意識的な記憶の時間性について見ていく。『SeaBed』の構成が複雑で、読解することに困難が伴うということは既に触れたが、その複雑性は端的には時系列で考えられるような時間性、つまりは歴史書のように線的に描かれ得るものとしての時間性ではないということに由来する。『SeaBed』全体を通して、時系列は殆どバラバラであり、さらには佐知子の幻覚も混在している可能性もあって、細かな事実検証は殆ど無意味である(註11)。この作品を心理小説と呼称した理由の二つ目が、まさにこの点にある。つまり、本作で描かれる描写の全てが突き詰めれば佐知子一人の視点であるため、これもまたプルーストと同様に、客観的な事実を書き連ねるような記録文学やリアリズム文学の類とは真っ向から対立しているのである(註12)

したがって、『SeaBed』について「年代が合わない」といった指摘はそもそも無効なのである。例えば、少し長くなるが、第四章「居眠り佐知子」から、佐知子と楢崎のやり取りを引用しよう。

「頭の中にもう一つの現実があると、貴方は前に言ったわね」
「言ったね」
「そこには貴呼がいるのよね」
楢崎は斜め前に首を傾げて、肯定した。
「そこはどんなところなのか考えていたのよ。貴呼はそこでどんな風に暮らしているのかしら?」
……
「わからないわ。貴方の催眠術のように過去の思い出を見ているのかしら。それとも、夢の中のような感じなのかしら」
「その二つで言うなら夢に近いところだね。ただ、キミが思うよりも現実に近いよ」
「どんなところなのか分かるの?」
楢崎は「大体ね」と肯定し「予想はつく」と付け足した。
「ただいくつか現実と違う部分がある。まず、日にちの経過が曖昧だ。キミが無意識に作っているところだから、誰もがキッチリと毎日を覚えてはいない」
「現実もそんなものじゃない?」
「まあね、だから向こうでも誰もそんなことには気づかないのさ。それと、キミが忘れたり思い出せなくなったりしたものは消えてしまう」

ここでは「あちら側」の時間軸があやふやであることが語られるが、そもそも「こちら側」の世界にしても線的な時間というものが想定されていないということが伺える。どこまでが幻覚で(特に序章)、どこからが「現実」なのかという線引きは、全ての描写が佐知子の視点であると仮定した場合、無意味なものとなるのである(註13)

また、同様の構造が日記においても言える。例えば第三章「1981年11月07日」において貴呼が「日記の日付がバラバラである」ということに着目している箇所は、些細なようだが『SeaBed』の構成そのものを集約しているとさえ言えるだろう。

ページをパラパラ、と捲り日付を見る。
次の日記の日付が数年飛ぶこともあれば、次が翌日であったり、一転して過去に戻ることもあった。
日付はランダムで規則はないようだった。

つまり、『SeaBed』で描かれる日記においても、線的な時間という考えは重要ではない。では、そこではどのような時間が流れているのだろうか。そこで、ここではベンヤミンの初期の著作である「青春の形而上学」の日記論についてを参考に、その時間について見ていきたい。ただし、彼の文章そのものは後期のベンヤミンに連なるような神学的・言語学的モチーフが数多く散見され、また文構造も複雑であり、難解極まりない(註14)。そこで、煩雑に思われる読者のために、ここでは予め先に結論を提示しておこうと思う。それはつまり、ベンヤミンにおいて日記を書くという行為は、日常の時間で死に至る「自我」を、恋人とともに「風景」として甦らせ、そしてついには不死性へと至らせるための、極めて創造的な行為であるというものである。では、分析に移ろう。

人間を生涯ずっと掴んで離さないのは、それでもなお不死性(Unsterblichkeit)ではなく、時間の空虚さなのだ。……さまざまな出来事に食い荒らされて、〔不死性の媒体となる〕時間は消え去ってしまった。……その媒体〔となる時間を〕掠め取ったのは日常であり、日常が事件や偶然の出来事、そして義務でもって、繰り返し繰り返し青春の時間を、人間が予感することのない不死性の時間を中断させたのだった。その日常性の背後にはなおも死が、差し迫るように聳え立っていた。今や死は、いまだ小規模な形で(im Kleinen)姿を現し、さらに生き延びさせるために日々死なせるのだ。……毎日毎日、いや毎秒毎秒、自我は自己保存に努め、あの楽器にしがみつくのである。すなわち、自身が演奏するはずだった〔青春の〕時間という楽器に。(Benjamin 1991: 97)

抽象的な言い回しが多い文章だが、ここで注目すべき点は、日常によって「自我(Ich)」は日々死んでいるという点である。自我は自己保存に努めようと、青春という時間の楽器を演奏しようとする。だが、日常の出来事がそれを中断させる。その日常の背後にはさらに大きな死が差し迫っており、自我は日々小規模に死なされる。日常の時間においては、あまりに自我は無力である。そして、その後のベンヤミンの論述では、その絶望的な状況に陥った自我は、ついに自身が時間そのものへと変化する、ということが語られる(Benjamin 1991: 97-8)。その変貌を遂げる場所こそが、日記という中においてなのである。

日常の時間、換言すれば日々の営みのうちに死に至る「自我」が解放され、甦るための場所として日記がある(註15)。そこでは、日常で過ぎ去った時間が、日記で書かれた文字の上に回帰する。それも、単に回帰するのではなく、「風景」とともに回帰するのである(註16)。そしてその「風景」とは、ベンヤミンにおいては恋人との結び付きが甦る場所として示される(註17)。例えば彼は、日記にのうちに現れる「自我」こそが不死性へと至るための時間そのものであると述べるのだが、その日記における「自我」=時間のうちに、さまざまな出来事が生じて来たり、友人や敵、そして恋人といった人たちが出会うことになるのであり、その自我のうちに永遠の時間が経過するのだと続けている(Benjamin 1991: 97-8)。日記を書くことで、日常という時間の中で死に至る「自我」は、過ぎ去ったさまざまな出来事が立ち現れてくる風景と同化し、不死の存在として回帰するのである。

したがって、以上までをまとめると、ベンヤミンにとって日記を書くという行為は――繰り返しになるが――日常の時間で死に至る「自我」を、恋人とともに「風景」として甦らせ、そしてついには不死性へと至らせるための、極めて創造的な行為なのであるのだと言える(註18)。以上の考察を踏まえて次章では、日記を書くという行為のその解放性、あるいは創造性について、『SeaBed』においてはどのように取り扱われているのかを検討する。

◆第四章:物忘れの症状について

「日記を書く者は、その筆跡において識別可能性と一貫性を、つまり個性を獲得する」(F・キットラー『書き込みシステム1800/1900』)

日記とは無意識的な記憶であるとは既に述べた。では、日記を書くとはその場合どういう意味を持つことになるのだろうか。作中では、それは「物忘れの症状を治すため」と語られている。だが、一体どのようにして? そのための手がかりとして、先に物忘れの症状について確認しておこう。貴呼の場合における物忘れの症状については、作中いくつかの箇所で語られている。とりわけ重要になってくると思われるのが、①第三章「療養所の怖い話」、②第八章「貴呼」および③「楢崎診療所」、④第十章「コール」における描写だ。それらで示される物忘れの症状についてまとめてみると、以下のようになる。

①過去にあったことは覚えていても、それに対して何を思っていたが(感動)が分からなくなり、患者の個性や性格が失われる病気(早苗)

 

②記憶がなくなることで発作(=耳鳴り)が起きる、症状には軽度なものと重度なものがあり、後者は急速に物忘れが進行し、思い出しの作業が追い付かなくなる。記憶を失うということは、自身が誰であるかが分からなくなるということを意味する(楢崎)

 

③写真や声を録音したカセットテープは物忘れの症状に対する処置としては不適切である。その理由は、自分の姿や声は、普段あまり意識されないものだからである(楢崎)

 

④物忘れの症状は、根のない記憶から奪っていく。楢崎が貴呼に対して佐知子の話をすることで思い出すことは、本当の記憶ではない。貴呼の佐知子と楢崎の佐知子は別のものである(楢崎)

①および②では、物忘れとは患者の個性を失わせることが示されている。一方、③および④では、記憶=個性を取り戻すためには日記が必要であることが示唆されている。特に、④では日記を書くことで本当の記憶を思い出す必要性が語られており、総じて言えば、日記を書くこととは個性を取り戻すことと不可分の行為であると同時に、自分の姿や声ではなく出来事に対する感動(終章「ぬいぐるみ」)、つまり印象を書くことによってのみそれが可能になるのである。

印象を書くことで日記は紡がれる。つまり、日記とは無意識的な記憶であると同時に、出来事に対する印象の束なのである(註19)。佐知子は「こちら側」の世界で起きた貴呼の印象の束を、日記という形で形象化することで、楢崎は「あちら側」の世界にいる貴呼にそれを渡していたのであり、貴呼はそれを部分的に読み解くことで、再度自身の印象を書き直す。そして、その書き直しの作業こそが、貴呼という存在が「あちら側」の世界で個性を(再)獲得していく行為であり、死後の彼女の人格を(再)形成する過程そのものなのだ。ゆえに、前章での考察を含めてまとめると、日記を書くという行為は、一方では貴呼を失った佐知子による創造的行為であるとともに、もう一方では佐知子によって創造された貴呼が、再び自らの主体性を回復するための解放的行為であるということを意味すると言えるだろう

したがって、ここであえて『SeaBed』における「日常描写の単調さ」の話についてもう一度触れると、その単調さとは出来事の不足に由来する指摘であり、出来事に対する印象の不足に由来するものではない。確かに『SeaBed』には、貴呼の死以上に大きな出来事は殆ど存在しないと言えるだろう。しかし、重要なのは彼女たちの出来事に対する印象なのであって、その印象についての描写の緻密さこそが、貴呼というキャラクターの死後の人格を形成するための重要なファクターとなっているのである(註20)

◆おわりに

以上までをまとめると、『SeaBed』における日記とは、何よりもまず佐知子の無意識的な記憶であった。それゆえに、その筆跡は佐知子だけのものではなく、貴呼のものや楢崎のものが入り混じるということが起こり得た。そして日記を書くという行為は、一方では貴呼の死後、「あちら側」の世界へと生起させるための佐知子(≒楢崎)による創造的行為であるとともに、他方「あちら側」の貴呼にとっては、佐知子が作り上げただけのものではない主体性を回復するための解放的行為であるものだった。そして、日記が理知だけでは捉え切れない、出来事に対する印象を書き連ねたものであるがゆえに、死後の貴呼の人格がより精緻に描写されていると考えられるのである(註21)

冒頭でも述べたことだが、私やこれを読んでいる読者も、いずれ文字通りの意味で死に至るだろう。あるいは、誰かの死を経験するだろう。その時に私たちは、いかにしてその他者を受け止められるだろうか(あるいは逆に、誰かに受け止められたいと思うだろうか)。特に、誰かにとってかけがえのない存在が亡くなった時、私たちはどのようにして、その死と向き合うべきだろうか。もしかしたら、佐知子ほどの力があれば、かけがえのない存在であった貴呼を「あちら側」の世界に甦らせることはできるかもしれない。だが、必ずしもそれができるとは限らない。例えば、佐知子のようにしっかりとした休養を取り、貴呼の死と向き合うための時間を設けることができるとは限らないように。

しかし、日記を書くように誰かの記憶を留めること――そのための方法は、私たちにはまだ残されている。それは、その存在について書き続けるということだ。少し前に『100日後に死ぬワニ』という漫画がTwitter上を賑わせたが、そのワニが本当に誰かにとって「かけがえのない存在」であるならば、書かれ続けなければならない。そしてそれは、単に出来事として描かれるだけでは不十分なのだ。たとえ些細なものであれ、その存在についての印象を残し続けること――それによって私たちは、いつでもその存在と出会い直すことができる。そのことを、『SeaBed』は教えてくれているのではないだろうか。

◆補論:Switch版の追加シナリオ(TipsⅤ. 河原石)について

Switch版では追加シナリオとして、貴呼と早苗の図書館でのやり取りが描かれていたが、やはりそこでも記憶と存在が重要なモチーフとして登場していた。図書整理の後、二人は揃って珍しい色の夕焼けを見る場面があるのだが、そこで早苗は貴呼に「写真に撮ったら安心してすっかり忘れてしまうかもしれません」と告げる。それに対して貴呼は「それもそうか」と同意し、目を閉じてその夕焼けの景色を思い描く。早苗は「きっといつか思い出すこともありますよ」と続けて言い、「私が覚えていればですけれど」と付け加える。そして二人で笑い合う場面で追加シナリオは終わる。

既に現代は、写真や動画などで記録されることがごく当たり前の時代となっているが、記録は正確である一方、どこかへ紛失したり、あるいは完全に忘れ去られたりしてしまうことがある。対して、記憶はそもそも極めて曖昧なもので、さらには忘れ去られてしまうことも、ままにして起こる。だが、記録はあくまで歴史家が掘り起こさなければ発見されないものである一方、記憶はふとしたことがきっかけで思い出されることがある。実際、『SeaBed』で思い出される記憶は全て佐知子と貴呼の二人の記憶だ。

まさにこの点に記憶の長所がある。「記録ではなく記憶に残る人/話」という謂いは、しばしば出来事に対する記憶の優位性を持ち出す際に用いられる言葉だが、それは出来事の印象や感動を残すための最善の方法が、記憶というしなやかなメディアだからということを誰もが理解しているからなのではないだろうか。

(第七章「二人で描いた絵」より、高級貴呼ソファに座る佐知子。筆者が好きなシーン)

【註釈】
(註1)これについては次章で詳しく述べる。また、この点については『SeaBed』Switch版の作品紹介ページなどからも察することができるが、公式の紹介ページでは旧版と新版の二種類があり、旧版の方では佐知子の記憶の探求という側面が強調されている一方で、新版では佐知子と貴呼の関係性の刷新という側面が強調されている(Paleontology 2015; 2016)。

(註2)例えば、序章「哲学者」に一度だけ出てくる「生の絨毯」というモチーフは、ドイツの象徴主義派詩人シュテファン・ゲオルゲの詩集のタイトルであったり、第一章「音楽のプレゼント」では象徴主義派の音楽家であるクロード・ドビュッシーの「亜麻色の髪の乙女」が流れていたりする。特に前者に関しては、死者すらもまた絨毯の複雑な模様を描くための糸として織り込まれているという意味において、極めてゲオルゲ的な意味合いが強調されていると言える(ゲオルゲ 1899=1994: 131)。

(註3)この点について、あおあおしてる人(2019)は、「愛する人の死を受け止める物語」なのかもしれないと曖昧に記述しているが、この作品を例えば精神分析学的な「喪の作業」の物語と見なすことはあまりうまくいかないかもしれない。精神分析家のジョン・ボウルビィの説に従えば、通常「喪の作業」には極めて激しい精神的動乱が含まれている(Bowlby 1980: 70)が、第四章「ほしの帳」において佐知子は七重に「感情がいつも希薄」であり、貴呼が亡くなった際も泣いていないのではないかと指摘されている(とはいえ、同じく第四章「図書館でのすれちがい」において楢崎が梢に対して、自らの仕事内容について、人の心を海に準えて説明を行う場面で、佐知子の表面上の振る舞いだけでは察することのできない心の奥底での精神的動乱が暗示されていることもまた事実である)。また、七重というキャラクターは、まさに佐知子が辿るかもしれなかった選択肢の一つである(はじ 2017)という点でも、「喪の作業」という主題を一般化することは適切ではないと思われる。それはつまり、第六章「覚める前に」での佐知子と楢崎の会話において、愛する人の死を受け止めないという選択肢(「思い出の中に戻る」)や、受け止めつつも自らの存在を抹消するという選択肢(「貴呼のいる診療所へ行く」)が描かれているからである。

(註4)例えばKastel(2016)やCatgirl(2016)、dolicas(2017)など。ただし、いずれの論者も『SeaBed』における「単調さ」はキャラクター描写のリアルさの裏返しであると述べられている。また、はじ(2017)だけは、起こる出来事の少なさではなく、キャラクターの反応や感情の描写という側面に注目している。

(註5)この点について、山科(2016)は「歩く」行為に着目し、登場人物たちが歩き始めることこそが物語の核心であると述べているが、この指摘は当たらない。山科は「迷い込んではまり込んだ現状を突破するため」に歩く行為を捉えているが、実はそこには他者に対する倫理的な視点が決定的に欠けている。

(註6)余談になるが、『SeaBed』は渡り鳥の半球睡眠の話をかなり先駆的に文学作品に取り入れている可能性がある。というのも、イルカやアシカ類などの海洋生物においては半球睡眠が行われていることは既に知られていたが、鳥類において、特に渡り鳥が半球睡眠を行っている可能性があると指摘されたのは2003年や2004年以後のことであり(McNamara et al. eds 2010: 150)、また実際に半球睡眠を行っていることが確認されたのは2016年8月以降のことである(福田 2016)。『SeaBed』の販売開始日時はDLSite上では2016年1月25日である。

(註7)他にも『SeaBed』と『失われた時を求めて』と類似している点はかなりある。詳しくはまた別の機会に譲るが、その一例を挙げておくと、第一巻『スワンの恋』で示される社会的性格についての描写と『SeaBed』第六章「覚める前に」で示される「意識のないロボット」についての描写や、第五巻『囚われの女』の「夢の世界」と「覚醒の世界」における知覚の方法についてなどがそれである。また、プルーストが無意識的な記憶の例として現れる箇所について平井(1989)は、シャルル・ブロンデルが挙げる八例について肉感性(sensualité)という概念を手掛かりにそれぞれ分析に及んでいるが、『SeaBed』においては、佐知子の例に限って言えば、旧国鉄のトンネルの暗闇、離れのベッドの縁、洋館の焼却炉、湖、ロビーの電話などがその例として挙げられるだろう。

(註8)これはプルーストによっては通常不可能なことだと考えられている。つまり、思い出しによって、言い換えれば意識的な記憶によって得られる記憶には何かしら無自覚的な忘却を伴うものであるため(そうでなければ無意識的な記憶という記述はあり得ない)、意識的な記憶によって無意識的な記憶を再構成することは不可能である。この点については三島(2010: 352)を参照。

(註9)ただし、これは佐知子が作り上げている幻覚である可能性がある。

(註10)「気になるのはこれが佐知子の文字ではないことだった。/とてもよく似ていたが、見慣れた佐知子の文字は佐知子の性格を表したかのように写実的で物静かな文字だ。/対してこちらの文字はいかにも動的だった」とあるように、佐知子以外が書いた可能性、ひいては楢崎が取りまとめた記憶である可能性が示唆されている。

(註11)例えば第三章「1979年10月06日」では、貴呼が小学四年生からバスケットボール部に加入していること、さらに第三章「1981年11月07日」では彼女らが小学校の遠足に水族館に向かっていること、そして第五章「1975年09月22日」では佐知子と貴呼が幼稚園児、つまり満6歳であることから、貴呼が1969年生まれである可能性が高いが、同じく第三章「1981年11月07日」での水族館の話を皮切りに、貴呼は繭子と好きな魚の話をするのだが、その時に繭子は「大阪の方に新しく大きな水族館ができたらしい」と告げる場面がある。その水族館とは明らかに海遊館のことを指しているが、その開園時期は1990年7月20日である。あるいは第七章「早苗の幽霊」で早苗が貴呼に「それじゃあ。あの街の幽霊みたいに、コインを持ち上げます」と告げる場面は、明らかに『ゴースト/ニューヨークの幻』のパロディであり、その初公開が1990年7月13日、日本版初公開が1990年9月28日であるため、「あちら側」の世界の貴呼は恐らく21歳以後の貴呼であると考えられるが、そもそも貴呼が入院している椚原療養所という施設自体が、貴呼の死後に佐知子によって構築されたものである以上、年号は一致しない。

(註12)この辺りはプルーストの『失われた時を求めて』第七巻「見出された時」における文学論(1913-1927=1974: Ⅶ 184) などを参照。

(註13)例えば第六章「楢崎の不在」における佐知子と七重のやり取りにおいて、本来は存在しないはずの楢崎の存在について佐知子が七重に尋ねる場面や、あるいは第九章「湖」において、佐知子が「現実と実際の記憶、または記憶が改竄された景色と区別がつかなくなりそうになった」と述べる場面がある。特に後者で佐知子は「客観的に考えてみる」ことで、楢崎のような口調を無意識に発し、それに対して自ら応答している。これらの場面から、私たちは病態失認(anosognosia)と呼ばれる、自らの病態に関する認識の欠如についての構想を得ることができる(Schulz 2010)。この点については稿を改めて述べたい。

(註14)そもそも未完の著作であり、さらに論考それ自体も彼の友人であったG・ショーレムの筆写稿のみが残されているものである。

(註15)ドイツ文学者の柿木伸之は、彼の日記論について次のようにまとめている。それはつまり、ベンヤミンにとって日記を書くという行為は「日常の連続から、さらにはその時間――『暦の、時計の、そして証券取引所の時間』――の連続から隔たった場を開くかたちで断続的に書かれ、けっして完結することがない」ものであり、「生きられた時を、日常の時間から『解放する行為』にほかならない」ものである(柿木 2019: 43-4)。

(註16)柿木(2019: 44)を参照。

(註17)柿木(2019: 40-3)を参照。また、ベンヤミンにとってレズビアンという形象が「青春の形而上学」において、それが示唆する青春の不可能性(=男女の恋愛の不可能性)の自覚が逆説的に創造性へと至る重要なモチーフとなっているものの、本稿では詳しくは述べない。

(註18)この点については、道籏泰三による訳注を参考(ベンヤミン 1913/1914=1992: 42)。

(註19)だからこそ終章「ぬいぐるみ」の後半部、楢崎が燃やした最後の紙片が、佐知子から貴呼へ当てた「ごめんなさい」というたった一言の言葉なのである。

(註20)また、プルーストにおいても「印象」は理知によって引き出される真理よりもはるかに貴重なものであることが語られている(1913-1927=1974: Ⅶ 197)。

(註21)日記の他にも、『SeaBed』には重要なモチーフはいくつも存在する。例えば七重の存在は、作中でも繰り返し貴呼と似ているという描写がなされており、さらには佐知子が辿るかもしれなかった存在を示すキャラクターという点(そしてまさにこの点が、梢や繭子などの、佐知子と似ているとされるキャラクターより際立っていると考えられる)では非常に魅力的であり、かつ重要なキャラクターの一人だ。また、「こちら側」の世界と「あちら側」の世界それぞれの描写(特に第八章「仕上げを前に」での楢崎の「彼女が生きるために少しずつ死んでいく世界」という説明)の関係性も、やはり『SeaBed』を読み解く上で有意義だろう。とはいえ、やはり他でもない日記というモチーフこそが、「こちら側」の世界の佐知子と「あちら側」の世界の貴呼を結び付ける直接的な媒体という点ではやはり重要であると考えられる。これらについては、また別の機会に論じたい。ともあれ総じて『SeaBed』は、死後の人間に人格はいかにして生起するかという、古くからある問いに、極めて文学的に、そして具に答えようとした作品であったと言えるだろう。「人は死んだら星になって私たちを見守ってくださる」というような言葉は、小さい頃に誰でも聞いたことがあるだろうが、まさに『SeaBed』はそれを地で行く作品であった。とりわけ、序章「南の島」および序章「石で出来た町」で触れられる星々を介した存在論が、TipsⅠ. 楢崎診療所「浴室」や、第七章「早苗の幽霊」において佐知子と貴呼両者の口から再び語られる様子は、極めて象徴的である。それはつまり、「一度、存在したものは消えることがない」ということであり、二人の心情が通じ合っていることが描かれている。そしてその心情ですらもまた、消えることはない。その証拠に、第四章「ほしの帳」において、七重が佐知子に詰め寄る場面において、七重は「無いものばかりを想っていたら、いつか本当に消えてしまいそうな気がするわ。どんなに想ったって、伝わらない気持ちはないのと同じだと思うの」と述べる。佐知子はそれに直接反論することはなかったが、代わりに彼女は「それじゃあ、伝わる気持ちはあるのも同じってことかい?」と言う楢崎の声を聞くのである。存在だけでなく心情もまた、いやむしろ心情によってこそ佐知子と貴呼は、お互いにお互いを見失うことはないだろう。

【参考文献】
〈書籍・論文〉
・柿木伸之,2019,『ヴァルター・ベンヤミン――闇を歩く批評』岩波書店.
・鈴木隆美,2013,「無意志的記憶の思想的背景――プルーストのイデアリスム」(『思想』2013年第11号収録,岩波書店: 67-89).
・平井啓之,1989,『ランボオからサルトルへ――フランス象徴主義の問題』講談社.
・三島憲一,2010,『ベンヤミン――破壊・収集・記憶』講談社.
・ヴァルター・ベンヤミン,道籏泰三(訳),1913/1914=1992,「若さの形而上学」(『来たるべき哲学のプログラム』収録,晶文社: 13-45).
・シュテファン・ゲオルゲ,富岡近雄(訳),1899=1994,「生の絨毯」(『ゲオルゲ全詩集』収録,郁文堂: 131).
・マルセル・プルースト,淀野隆三/井上研一郎/伊吹武彦/生島遼一/市原豊太/中村真一郎(訳),1913-1927=1974,『失われた時を求めてⅠ~Ⅶ』新潮社.
・Benjamin, Walter, 1991, Gesammelte Schriften, hrsg. v. Rolf Tiedemann und Herman Schweppenhäuser, Band II, Frankfurt am Main: Suhrkamp Vlg.
・Bowlby, John, 1980, Loss Sadness and Depression: Attachment and Loss Volume III, New York: Basic Books.
・McNamara, Patrick, Barton, Robert A., and Nunn, Charles L. (eds.), 2010, Evolution of Sleep: Phylogenetic and Functional Perspectives, Cambridge: Cambridge University Press.
・Schulz, Kathryn, Being Wrong: Adventures in the Margin of Error, 2010, New York: HarperCollins books.

〈Webページ〉
・あおあおしてる人,2019,「【SeaBed】感想」(2020年5月15日取得,はてなブログ,http://aon-kabocya.hatenablog.com/entry/2019/04/05/044142).
・dolicas,2017,「百合ミステリーノベル『SeaBed』(paleontology)が面白かった話(感想・考察)」(2020年5月15日取得,はてなブログ,https://dolicas.hatenablog.com/entry/2017/02/04/224830).
・はじ,2017,「『SeaBed』感想」(2020年5月15日取得,はてなブログ,http://no1234shame567.hatenablog.com/entry/2017/03/14/222536).
・Paleontology,2015,「SeaBed(シーベッド)」(2020年5月22日取得,Paleontology,http://middle-tail.sakura.ne.jp/seabed_bk/info.html).
・――――,2016,「SeaBed(シーベッド)」(2020年5月22日取得,Paleontology,http://middle-tail.sakura.ne.jp/seabed/index.html).
・福田ミホ,2016,「やっぱり鳥って眠りながら飛んでたんだ。グンカンドリの調査によってその実態が初めて判明」(2020年5月15日取得,GIZMODE,https://www.gizmodo.jp/2016/08/bird.html).
・山科誠,2016,「歩く時間――「日常描写」を超えて:『SeaBed』評」(2020年5月15日取得,excite blog, https://yamashina.exblog.jp/24947831/).
・Catgirl, Anonymous, 2016, “SeaBed,” Medium, (Retrieved May 15, 2020, https://medium.com/catgirl-reviews/seabed-d60e0ea736d3#.sdh1s88xt).
・Kastel, 2016, “SeaBed – A Diary Entry,” WordPress, (Retrieved May 15, 2020, https://tanoshimi.xyz/2016/04/16/ever17-review/).

[記事作成者:山下泰春]