【翻訳記事】私たちのあいだでジョン・レノンはまだ生きている:スターが「メディア・フレンズ」になるとき、そのインパクトは強力で、予想外のものになりうる。(ジョシュア・メイロウィッツ)


【注意】
以下の記事は『アレ』Vol.9のインタビュー企画にご協力くださったジョシュア・メイロウィッツ氏が“Common Dreams”に寄稿し、2020年12月6日に公開された“John Lennon Still Lives Among Us: When icons become “media friends,” their impact can be unexpected and powerful.”を、当会の山下泰春が翻訳したものです。なお、以下の記事はメイロウィッツ氏ご本人からの「是非ともあなたたちが翻訳し、広く公開してください」というご要望および、元記事に「クリエイティブ・コモンズ 表示-継承 3.0(CC BY-SA 3.0)ライセンス」が付与されていることに基づき、同人サークル〈アレ★Club〉が公開しています。

1972年4月22日、マンハッタンのブライアント・パークで行われた反戦集会で演説する、元ビートルズのジョン・レノンと妻のオノ・ヨーコ。ベトナム戦争の激化に抗議するために行われたこの集会には、5万人以上もの人々が参加した。(写真:Bettmann/投稿者/Getty Images)

40年前の今週(訳注:本記事の初出は2020年12月6日で、ジョン・レノンが射殺されたのは1980年の12月8日だった)、様々な雑誌が大見出しで「ジョン・レノンは見知らぬ男に射殺された」と書き立てた。だが、暗殺者のマーク・デイヴィッド・チャップマンにとって、ジョン・レノンは見知らぬ男ではなかった。その冬まで彼は、元ビートルズのその人物の100マイル以内に立ち入ったことはなかったが、ジョン・レノンのことはよく知っていたのだ。実際、彼はしばしば自分がジョン・レノンだと信じていた。

10代の頃のチャップマンはレノンの髪型を真似て、ギターを習い、ロック・グループに所属していた。彼はレノンの歌を何度も何度も歌っていた。レノンと同じように、チャップマンも年上の日本人女性と結婚した。ホノルルのとある分譲マンションの警備員として働いていた彼は、自身のIDタグに書かれた自分の名前の上にレノンの名前をテープで貼っていた。彼が退職する日、チャップマンは「ジョン・レノン」とサインし、最後の一筆でその名前に打消し線を引いた。彼が犯そうとしていた殺人とは、部分的な自殺だったのである。

ジョン・レノンは、何百万もの人々が未だに彼やその他の死んだメディアスターを悼んだりするのと同じ力の、邪悪な側面によって殺された。つまりそれは、対面でのコミュニケーションを行う際の光景であったり音であったりをシミュレートするメディアによって育まれた感覚、選ばれた見知らぬ人物に対する個人的な繋がりの感覚である。

現実の友人と同じように、私たちは「メディア・フレンズ(media friends)」に縛られていると感じるのは、単に彼ら/彼女らが成し遂げたことや、彼ら/彼女らに出来ることは一体何(what)なのかによってだけではなく、むしろ彼ら/彼女らが誰(who)であるか――つまり私たちの生活の中での彼ら/彼女らの他ならぬ「存在(presence)」がいかに私たちに作用してくるか――についての、より個人的な、一連の感情によってでもある。ヒーローのための自然な精神的空間とは、どこかの台座の上からは少し離れたところにある。メディア・フレンズのための想像上の空間とは、私たちの側にある――その友人は例えば家でゴロゴロしていたり、通りを歩いていたり、車に乗ったりしている。

私たちがそんな友人を見たり聞いたりすればするほど、ミュージシャンや俳優、スポーツ選手やニュースキャスター、政治家やトークショーの司会者などが、私たちの社会的紐帯の、拡張されたネットワークの一部と化していく。メディア・フレンズは、親密さの感覚を与えてはくるものの、それはこちらを当惑させたり物理的な危害を加えたりするリスクが一切ないものだ。彼ら/彼女らの中には、「おはよう」と言うためだけにいるような人もいれば、「おやすみ」と言うためだけにいる人もいる。ジョギングするときには耳元で歌ってくれる。私たちの生活で最もプライベートな場面においてさえも、その友人たちは私たちのすぐ傍にいる。

私たちはメディア・フレンズの個人的な側面と公的な側面を追跡したりする。そして彼ら/彼女らのライフステージは、しばしば私たち自身の生活に区切りを設けたり、思い出したりするために用いる重要な道しるべとなる。現実の友人との会話では、共有されたメディア・フレンズに言及することが往々にしてある。皮肉なことに、メディア・フレンズとの関係が、実際の友人や近隣住民、同僚や恋人、さらには配偶者などの関係の多くを長持ちさせることもよくあるのだ。

広く共有されているメディア・フレンズが「これからというときに」突然亡くなったりすると、その関係の異常さが公共の場で爆発する。深い悲しみとやるせなさの悪魔を追い払うために、何千人もの人々が自発的に通りや公園に集まったり、メディア・フレンズの家や亡くなった場所の近くで通夜を行ったりする。

ジョン・レノンが射殺されたときもそうだった。見知らぬ人同士が抱き合い、涙を流し合った。群衆は沈黙の証人の代役を務めたり、亡くなったヒーローの言葉や歌を大声で繰り返したりした。そのような悲嘆は逆説的である――それは個人的なものでありながら、それが群衆に共有されることによって強められるのである。

皮肉にも、しかし適切にも、これらの関係を生み出すメディアは、メディア・フレンズの死を悼むための儀式的な環境をも提供する。ラジオやテレビでは、特番や回顧特集、追悼番組が放送される。「これまで見たことのない」写真やビデオ〔の紹介〕は、一種の文化的交霊会であり、墓場を越えた交流というものを拡張するのである。

そして最後の皮肉は、多くの意味で、メディア・フレンズとは不死であることだ。ほとんどの人にとって、その人のことを知るようになる唯一の手段――つまりメディアのイメージや音――は、永遠に利用可能なのである。メディア・フレンズが死ぬと、その関係は破滅するというよりもむしろ防腐処理が施される。とはいえ、喪失感は深刻なものなのだが。

ジョン・レノンは、平和や正義について大胆不敵に語り、より良い世界を想像(イマジン)するよう私たちに求めていた。この40年間で、反戦集会や環境保護活動、警察の残虐行為に対する抗議活動などのあらゆる場面において、彼の存在と、彼がいないことの痛切さの両方を、今でも感じ、聞くことができる。実際、彼の歌が進歩的な政治活動のサウンドトラックの一部に使われていることがよくある。

もちろん、メディア・フレンズとの紐帯はしばしば商業的にでっち上げられていたりするものだ。しかしそれでも、これらの関係は非常に人間的で、非常に思いやりに満ちている。この非現実的な、しかし現実的な関係をいくら分析しても、その感情的な力に説明がついたり、弱めたりすることはできない。私たちは生身の彼ら/彼女らを見たことがないかもしれないし、彼ら/彼女らの方も私たち自身の死には一度たりとも注意を払ったことがなかったことだろう。だが、メディア・フレンズが死んだり殺されたりすると、私たちはひどく悲しくなる。私たちは彼らの未亡人となった配偶者を心配するし、親を亡くした子供たちのことで思い悩んだりする。この悲劇はどうすれば避けられたかを考えたり、時には自分たちが彼ら/彼女らを救ったり、注意を促したりできたのではないかと、いくらかの責任感に苛まれることだってある。

私はメディア・フレンズとの関係には不条理な側面が多いことを理解しているが、同時にこれら全てを感じてもきたのである。レノンが殺害されてから何十年も経ったが、私の感情は未だに生々しく残っている。もちろん、私は彼を実際に知っていたわけではない。そしてもちろん、彼は私のことなどその存在すら知ってはいなかった。だがそれでも私は彼の力を借りて、自分の政治的な主張を見出したし、彼は世界中の何百万もの人々に、軍国主義や不正行為に直面しても黙り込んではいけないという勇気を与えてくれた。実のところ、私は今でも彼が私の傍を行進しているような気がするし――そして今でも彼のことを恋しく思う。

【出典】Meyrowitz, Joshua, 2020, “John Lennon Still Lives Among Us: When icons become “media friends,” their impact can be unexpected and powerful.,” Portland, ME: Common Dreams, (Retrieved December 6, 2020, https://www.commondreams.org/views/2020/12/06/john-lennon-still-lives-among-us).

[記事作成者:ジョシュア・メイロウィッツ/翻訳:山下泰春]