【ボードゲーム批評】『カルカソンヌ』について:競争と人数【盤面は語る(第2回)】


前回:【ボードゲーム批評】『カタン』と交渉:貧しい島と富める島【盤面は語る(第1回)】

『カルカソンヌ』は僕が最も好きなボードゲームの1つだ。そのせいか、どうもAmazonレビュー等とは若干ゲー厶に対する認識が異なる。恐らくはやり込んだからだと信じつつ、今回は『カルカソンヌ』について批評していこう。

まず、『カルカソンヌ』のルールについて一言で言えば、このゲームはタイルを置いて城や道を作るゲームだ。城や道に「ミープル」と呼ばれる駒を置くことで、それらが完成した時に得点を得られる。1つの城や道に複数のプレイヤーのミープルが置かれていた場合、最も多く駒を置いていた人に得点が入る(同数なら全員に入る)。

『カルカソンヌ』で大事なのは「草原」というルールで、ゲーム終了時まで得点を出さないが、草原にミープルが置かれていれば終了時に草原区域内にある完成した城につき得点がもらえる(これも城と同じように最も多くミープルを置いたプレイヤーが草原の特典を得られる)。

このゲームの遊び方は、大きく分けて2つある。1つは数人でワイワイ楽しむこと。もう1つは、2人でガチで対戦することだ。特にこのゲームのコアなファンは後者を好む傾向がある。

◆対戦人数で変わる『カルカソンヌ』

1vs1で『カルカソンヌ』を楽しむプレイヤーは、様々な形をした道の種類や城タイルの枚数を記憶しており、試合中にあと何枚残っているかをそれぞれ数えながらプレイすることが多い。また、より熱心なプレイヤーは時間制限を導入し、タイマーを使いながらプレイする。世界大会も開催されており、日本でも予選が行なわれている。こんな風に、ボードゲーム入門として有名な『カタン』とはまた違った形でボードゲーマーに好まれているのがこの『カルカソンヌ』だ。

一方、『カルカソンヌ』を勝利を目指すことを第一目的としたゲームとしてみると、複数人でのプレイは中途半端に思える。少なくとも、『カタン』ほどの人気はないことは確かだ。それだけ『カタン』が完成されたゲームなのは確かだが、『カルカソンヌ』の複数人プレイに欠点がないわけではない。たとえば、ゲームの目的とプレイの方向性の乖離がそれだ。

先述の通り、このゲームの目的は城(またはそれ以外の道など)を完成させて得点を得ることだ。実際、大きな城ができれば見た目的にも楽しいし、一気に多くの得点を得ることができる。しかし、実際のプレイではなかなかそうはいかない。人数が増えれば増えるほど、完成しない城は増えていく。

タイルの枚数は何人でプレイしても同じなので、1人当たりが引ける枚数には変わりがない。かといって、毎ターンタイルを引かないといけないし、駒を置かなければ得点は得られない。そのためプレイヤーは、他のプレイヤーの城や道に「相乗り(便乗)」する必要に迫られることが多い。

ここでの「相乗り」とは、既に他人が駒を置いている城に自分の引いた城タイルを隣接させておくことだ。人が作った大きな城に、たった1枚のタイルとミープルを置いて便乗することで、城の完成を邪魔することができるだけでなく、大きな城と小さな城をくっつけてしまえば得点を共有することすらできてしまう。

『カルカソンヌ』ではこの「相乗り」が、複数人プレイだと頻繁に起こる。そのため、いくつもの城に複数の色のミープルが置かれることになり、結果として城の完成は遅れてしまい、完成しない城はさらに増えることになる。

この結果、『カルカソンヌ』は城を作るゲームであるにもかかわらず、最終的な盤面には未完成な城ばかりが目に付いてしまうことが多い。そして、この目的とプレイの方向性の乖離が、『カルカソンヌ』の多人数プレイにおける何とも言えないモヤモヤ感の原因なのではないだろうかと筆者は考えている。

しかし、これが1vs1のゲームになるとどうだろうか。「相乗り」の発生が少なくなることもあって殆どの城が完成していることが多いため、完成した城が多いほど得点が増す「草原」の奪い合いが勝負の肝となる。また、勝利を目指せば目指すほど「草原」の奪い方やミープルの使い方など、プレイングを考える必要性は増すし、タイルの枚数などの事前学習も必要になってくる。

このように、『カルカソンヌ』は1vs1のゲームとしてプレイすることで、目的とプレイの方向性が一致するだけではなく、対戦ゲームとしての色合いが濃くなる。世界大会の様にタイマーを付ければ競技にもなる。

なお、ここまでは『カルカソンヌ』における複数人でのプレイを否定してきたが、実は見方を変えれば多人数プレイであっても楽しさを見出すことができる。

たとえば「相乗り」を複数名で行った場合、2人プレイでは見れないような巨大城が完成したりするし、1枚のタイルから始まったゲームが、巨大な地図の様になっていくのを見るのは面白い。駒であるミープルに対して、ある種の愛情を抱くこともできる(本題からは少し逸れるが、こうしたコンポーネントへの愛着をゲームデザイナーが意識するようになったのは、『カルカソンヌ』のミープルの影響があるのではないだろうか)。

多くのゲームは、人数が増えれば増えるほど不確実性が増すが、他方で人数が増えるほどゲーム外のコミュニケーションが楽しみとして生み出される傾向にある。こうした傾向を受けてゲームそのものの面白さがどう変化するかはゲームデザインの問題だろう。

◆競争と人数

ところで、このゲームのパイ(最大得点の数値)は常に一定であり、人数が増えようが減ろうが変動することはない。この点とミープルとの関係に着目すると、『カルカソンヌ』が持つなかなか面白い現実との相関関係が見えてくる。

ゲーム終了時の盤面を見てみよう。先程述べたように、『カルカソンヌ』では2人でのプレイでは完成した城が多く「草原」の価値が高い。それゆえにプレイヤーの勝敗を分けるのは、「草原」の点数によるところが大きくなりやすい。また、城が完成しやすいため、多くの駒が得点を出し、「死に駒」が少ない。このような盤面では、終盤に引いた城が完成していないだけで、他のほとんどの城が完成しており、草原での競い合いで負けたプレイヤーのミープルが、得点を出せずに寝そべっている。

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一方、3人以上の複数人でのゲームでは、完成した城が少なく、「草原」の価値も2人プレイの時よりも低めだ。この場合、勝敗を分けるのはどれだけ城を作れたか、どれだけ誰かの城に便乗し得点を奪ったかという要素だ。結果、未完成の城の上には回収できなかったミープルが散見され、草原にも城がないゆえに何も生産しないミープルが増える。

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『カルカソンヌ』では1vs1でのプレイの際は草原が熾烈な競争を生み出すが、盤面の一部でしかそれが起こらないし、終盤にしか起きない。一方で複数人でのプレイは、盤面のいたるところで常に城を巡った競争が行われる。終了時の盤面を見た時、小競り合いのあとに残るのはあちこちにある未完成城という形で残されている。

必然的に、プレイする人数が増えれば増える程競争は激しくなり、得点を生み出さないミープルが増えていく。また、プレイヤー間の得点の差も、複数人だと開きやすい。大きな城を奪った人間がそのまま勝ちやすいからだ。

現実社会でも、パイが一定ならば参加者が増えれば増える程競争が激化する。個々の取り分は少なくなるのに、競争によって奪われるものも多くなり、結果格差は広がっていく。城のない草原に寝そべるミープルは、寝ているだけで何も生み出さない、現実世界でいうニートみたいなものだ。彼らをどうにかしたいなら、ゲームデザイン=政策そのものを変える必要がある。

しかし、忘れてはいけないのが、未完成の城であってもゲーム終了時に得点が入るという事だ。熾烈な競争の結果、結局完成しなかった大きな城が、完成した小さな城よりも得点が大きくなることは少なくない。また、もしゲーム終了後にパイそのものが増えたなら、きっと大きな城がいくつか完成するだろうと夢想することもできる。

競争は悪いことではない。発展の源泉であり、夢の起源である。『カルカソンヌ』はたった一枚のタイルから、競争によって土地全体を発展させていくゲームだ。土地の発展という点に着目すれば、複数人プレイの方が「発展する余剰が残りやすい」ということができるかもしれない。

城に取り残されたミープルは何を思うか。きっと彼らは次のタイルを待ち続けている。数分後に盤面が片付けられて次のゲームが始められるその時までは。時にはプレイ後に、『カルカソンヌ』の世界の今後の発展について考えてみるのも悪くはない。(続)

市場競争と競争の公平性について記した本。かといって市場をただ礼賛するだけでなく、競争の辛さも踏まえて語っている。

次回:【ボードゲーム批評】『ポンペイ滅亡』:命の数は死体の数だ【盤面は語る(第3回)】

[記事作成者:堀江くらは]