ガディール・フンムの「伝承」について【「ことば」を語る(第2回)】


前回:名古屋弁について【「ことば」を語る(第1回)】

◆はじめに

イスラム教についてニュースやワイドショーで報じられる際「シーア派」「スンニ派」というワードがよく出てくる。この2つの宗派については耳にしたことのない読者の方が少ないだろう。「シーア派」と「スンニ派」というのはイスラム教の主要な宗派であり、教義には共通している部分も多くあるが、異なる部分も多々ある。また、それぞれの宗派内の分派でも細分化されている。

さて、シーア派とスンニ派の最大の違いは何かと問われれば、それは「統治者」論の違いにある。シーア派がアリー(第4代正統カリフ)の血筋に連なり、指名によって選ばれる「イマーム」を指導者とするのに対し、スンニ派では合議を経て決定された「カリフ」が指導者となる。シーア派の見解では、そもそも、ムハンマドは後継者として、アリーを指名していたのに、アリー以前のカリフがそれを簒奪したとみなしている。その「指名」が行われたとされている場所が「ガディール・フンム」である。今回は、ガディール・フンムで行われたとされる「指名」に関して、シーア派とスンニ派双方の見解を再構成しながら見ていきたい。

 まず、そもそも「ガディール・フンムの指名」はいつ行われたのか、何を以て「指名」と言われているのかについて説明をする。次に、それについてのシーア派の見解、及び解釈をシーア派の人間によって書かれた文献をもとに見ていく。無論の事ながら、シーア派の文献は、この「指名」を肯定するものばかりである。それに続いて、スンニ派の見解と解釈を確認する。その後、結論に移りたい。

◆「ガディール・フンムの指名」の概要

まずは、「ガディール・フンムの指名」がどのようなものなのかを説明したい。シーア派の人間によって書かれた文献によると、

イスラームの預言者は別離のハッジ[=六三二年に行われたムハンマドの最後のハッジ]を終えられた後、ガディール・フンムに立ち寄られ、ムスリムたちを周りに集め、説教を行った後、アリーに統治権とムスリムの指導者位を与えた(※1)

そうである。また、筆者は未見であるが、タバータバーイー(2007)によると

[教友]アブー=サイード・フドゥリーは以下のように述べている。「預言者はガディール・フンムで人々をアリーの方にお呼びになり、アリーの腕を取って高々と挙げた。あまりに高く挙げたので、神の使徒の脇の下の白い肌が見えたほどであった。すると章句が下った。(中略)それから預言者は、『宗教が完全となり、恩寵が全きものとなり、神の満足が得られ、私の後のアリーの統治が定まったが神はそれらのどのことよりも偉大である』と仰り、また、『私がその者に対し決定権を持ちその者の諸事を取り仕切っていた者に対しては、[私の後は]アリーがその者に対する決定権を持つ。神よ、アリーの友の友たれ。そしてアリーの敵の敵たれ。アリーを助ける者を助けたまえ。そしてアリーを見捨てる者を汝も見捨てたまえ』と仰った」(※2)

という伝承があるそうだ。これが「ガディール・フンムの指名」である。

ムハンマドが「私をマウラーとする者は誰でも、アリーがマウラーとなる」と言ったとするハディースがある。詳しくは後程触れるが、この「マウラー」という言葉の解釈がシーア派とスンニ派で大きく異なる。「マウラー」をアラビア語の辞書で引くと「支配者」、「庇護者」、「友人」などのいくつかの意味が出てくる(※3)。ではシーア派とスンニ派はどのようにこの言葉を定義しているのだろうか。

先に答えておくと、シーア派ではマウラーを「支配者」と解釈し、スンニ派では「友人」と解釈している。なぜこの違いが生じたのか、双方は何を根拠にこれを主張しているのかは次で見ていく。

◆シーア派の見解

シーア派はマウラーの意味を「支配者」としていると書いたが、ここからは彼らがその根拠とするものを見ていきたい。

シーア派はクルアーンの諸章句をアリーがムハンマドの後継者であることの証拠としている(※4)。例を挙げると、クルアーンの第5章55節の

「誠にあなたがたの(真の)友は、アッラーとその使徒、ならびに信仰する者たちで礼拝の務めを守り、定めの喜捨をなし、謙虚に額ずく者たちである。」

や、同じく第5章3節の

「(前略)今日、不信心な者たちはあなたがたの教え(を打破すること)を断念した。だからかれらを畏れないでわれを畏れなさい。今日われはあなたがたのために、あなたがたの宗教を完成し、またあなたがたに対するわれの恩恵を全うし、あなたがたのための教えとして、イスラームを選んだのである(後略)」

である。また、クルアーンの第5章67節には

「使徒よ、主からあなたに下された(凡ての)ものを、宣ベ伝えなさい。あなたがそれをしないなら、かれの啓示を宣べ伝える使命は果せないであろう。アッラーは、(危害をなす)人びとからあなたを守護なされる。アッラーは決して不信心の民を導かれない。」(※5)

と記されている。これは、ガディール・フンムで下ったものとされている(※6)

次に、シーア派はガディール・フンムの地理的、気候的状況から、マウラーが「友人」の意味ではないとする。ガディール・フンムは水も牧草もない灼熱の地であり、あまりの暑さ故に多くの者がマントで熱から身を守っていた。そのような場所に、ムハンマドはわざわざ大勢の巡礼者を立ち止まらせた(※7)。シーア派は、アリーが「友人」であることを強調する為だけに、ムハンマドが砂漠の真ん中に巡礼者を立ち止まらせることはないとし、そこには重大な意味があるとしている。

「預言者としての使命を果たせ」という神の言葉の後に、ムハンマドが皆の前で「私をマウラーとするものは、誰でも、アリーがマウラーとなる」と言った。主にこの二つを根拠として、シーア派は「マウラー」を「支配者」であると定義している。

◆スンニ派の見解

「私をマウラーとするものは、誰でも、アリーがマウラーとなる」という言葉は、決してシーア派だけが伝えているものではない。スンニ派の代表的ハディース集の内、ティルミジーの『Jāmi’』とイブン・マージャの『Sunan』にもこの言葉が伝えられている(※8)。しかし、シーア派に対して、スンニ派はこの「マウラー」の意味を限定して考えている。イブン・マージャの『スナン』の英訳では「私をマウラーとするものは、誰でも、アリーがマウラーとなる」という記述において、「マウラー」という言葉が、「友人」とされている(※9)。なお、ブハーリーの『真正集』にはこの言葉は載っていない。これはブハーリーがシーア派やムータジラ派に関するハディースを意図的に排除しているからである。

スンニ派の解釈では、この「私をマウラーとするものは、誰でも、アリーがマウラーとなる」という言葉は別の意味で解釈される。これは「別離のハッジ」の前に、イエメン遠征軍兵士が指揮官であるアリーの気性の粗さに苦情を言い、それに対する返答であるとされている。アリーの兵士たちがアリーに対して抱いていた悪感情を無くすのが目的であった(※10)

また、シーア派はクルアーンのいくつかの章句がガディール・フンムの指名と関連付けられるとするのに対し、スンニ派ではそれらを示すものも仄めかすものも存在していない(※11)。ガディール・フンムの指名は、シーア派では「別離のハッジ」で行われたとされているが、スンニ派の人間によって書かれた文献、例えば『預言者ムハンマド伝』ではそこには一切触れられていない(※12)。このように、スンニ派はシーア派の主張に対して全く同意していない。

◆結論

今回は、「ガディール・フンムの指名」に関するシーア派、スンニ派双方のなるべく一次資料に近いものを調べた。双方の主張については既に見た通りだ。ここからは結論に移りたい。

この伝承を調べるためにいくつかの文献に当たってみた。そこから言えるのは、シーア派はシーア派の立場からしか、同じくスンニ派はスンニ派の立場からしか伝承を伝えていないという事だ。

無論、シーア派の人間が書いた文献に、スンニ派の解釈が乗っているものもあったが、それはいわば「神学論争」のようなものであり、「このように言われたらこう返す」ということがあらかじめ決まっている。

シーア派の解釈を読み込んでいけば指名は事実としてあったものとしか思えず、逆にスンニ派の解釈では、指名はあり得ないものとしか考えられなくなる。

また、シーア派はクルアーンの諸章句や様々なハディースを典拠に「指名」はあったものであるとし、そのような結論に持っていこうとするが、スンニ派ではそのようなことは一切認めず、そもそもシーア派が根拠とするハディースを否定していることが多い。シーア派、スンニ派双方に採用されているハディースも存在するが、今回の「指名」に関するものはそれに対する解釈が大きく違う。

実際に「ガディール・フンムの指名」があったかどうかはわからない。というのも、ハディースというものは法学派ごとに採用するものが異なり、歴史的に数多の贋作が存在するからだ。また、この時代のアラビア半島に関する資料はほぼ存在しないため、調査を行うことはできない。

既に記したことだが、シーア派とスンニ派の最大の違いは「指導者」論である。今回調べた「ガディール・フンムの指名」はそこに密接にかかわってくる部分である。故に、双方の主張も大きく異なるものになっているのだろう。

【注釈】
※1:タバータバーイー(2007:175)
※2:タバータバーイー(2007:174)
※3:アラジン(2017年6月20日取得,http://www.linca.info/alladin/dic.php?id=34291&cur=34291001)を参照
※4:タバータバーイー(2007:172-3)
※5:本論におけるクルアーンの章句は、基本的に「イスラーム文化のホームページ」(1998)を参照
※6:サイード(1996:25)
※7:Sobhani(2001:106)
※8:ティルミジー(2017年6月18日取得 https://sunnah.com/urn/735920)及びイブン・マージャ(2017年6月18日取得,https://sunnah.com/urn/1301250)
※9:注釈8の「イブン・マージャ」のリンクを参照
※10:Dakake(2007:44-45)
※11:同上(2007:46)
※12:イブン・イスハーク(2011:512-520)

【参考文献】
●日本語
・イブン・イスハーク著,イブン・ヒシャーム編註,後藤明 [ほか] 訳,2010.11-2012.1,『預言者ムハンマド伝』岩波書店.
・菊地達也,2009,『イスラーム教――「異端」と「正統」の思想史』講談社.
・モハンマド=ホセイン・タバータバーイー著,森本一夫訳,2007,『シーア派の自画像 : 歴史・思想・教義』慶應義塾大学出版会.
・サイード・ムジュタバ・ムーサウイ・ラリ著,ハミド・アルガル訳,1996,『イマーマトと指導者性』Foundation of Islamic cultural propagation in the world.

●英語
・Dakake, Maria Massi, 2007, “The charismatic community : Shiʿite identity in early Islam”, Albany : State University of New York Press.
・Subḥānī, Jaʿfar, 2001,“ Doctrines of Shiʿi Islam : a compendium of Imami beliefs and practices”, London : I.B. Tauris Pub..

●アラビア語
・al-Kulaynī, Muḥammad ibn Yaʿqūb, 1985, “al-Uṣūl min al-Kāfī”, Bayrūt : Dāral-Aḍwāʾ.

●Webサイト
・イスラーム文化のホームページ,1998,「聖クルアーン」,イスラーム文化のホームページ,(2018年12月17日取得,http://islamjp.com/culture/koran_frame.html).
・アラビア語検索エンジン アラジン ver.1,(2018年12月17日取得,http://www.linca.info/alladin/index.html).
・Sunnah.com,(2018年12月17日取得,https://sunnah.com/).

【おことわり】
本記事では各ワードについての細かい説明は省かせていただいた。恐縮だが、気になる点については各自検索していただけると有難い。

[記事作成者:高山健(@gaoshanbi)]
同人サークル〈Project M.L.J〉代表、機関誌『M.L.J』編集長。日々、アラビア語文献に苦しめられる生活を送っている。最近は、定期的に研究発表会や読書会という名の「怪しい集い」を催している。

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