【第4回】その灯火を手がかりに(私が『ひとりぼっちの地球侵略』と共に辿り着いた「コンテンツ」の限界)


前回:【第3回】出来たら配信!気が向いたら執筆!(私が『ひとりぼっちの地球侵略』と共に辿り着いた「コンテンツ」の限界)

◆お知らせ

本連載の肝と言える作品である『ひとりぼっちの地球侵略』が、先日の2018年9月12日に無事完結しました。この連載は引き続き行っていきますが、今回以降『ひとりぼっちの地球侵略』は完結済みの作品として紹介することをご了承ください。

◆苦戦する中で深化していった作品読解

「さいむ」の2014年は、ある作品の完結によって始まりました。その作品とは『ぼっち侵略』の作者である小川麻衣子先生の『魚の見る夢』という百合漫画です。芳文社から出版されていた『つぼみ』という「百合」をテーマとしたアンソロジー集の休刊により全2巻という早期完結を強いられた本作ですが、現在でも根強いファンが多い、いわば「知る人ぞ知る名作」です。そんな『魚の見る夢』の2巻を、私は早速本屋で購入しました。ほぼ毎日『ぼっち侵略』読んでいるような人間ならば当然『魚の見る夢』もスラスラ読める……かと思いきや、読み始めてすぐに私の期待は大きく裏切られることになります。

「え……何、これ……?」

困ったことに、作中で何が起こっているのかさっぱり分かりません。『ぼっち侵略』の場合は読み返すことで新たな気付きがあったため、辛抱強く何度も読み返すのですがどうにも理解ができず、Twitterのフォロワーに「ここはこういう描写だよ」と教えてもらって、ようやく一つの場面の意味に気付く始末です。結局、私は『魚の見る夢』を読むことを一度諦め、この漫画を本棚に片付けてしまいました。

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魚の見る夢1巻2巻。本文にある通り雑誌が休刊してしまったため、現在は電子書籍以外で本作を購入することはやや困難になっています。

当時を振り返ると、こうなってしまった原因が幾つかあることが今なら分かります。まず、『ぼっち侵略』読解において他作品との比較にかなり依存していた私にとって、オマージュがほぼ存在しない『魚の見る夢』は読むためのとっかかりがほとんどなかったこと。次に、いわゆる「百合作品」というものをまともに読むのが初めてだったため、そのジャンルにおけるパターンやオーソドックスな展開を知らなかったためにどうにもついていけなかったこと。そして何より、作品に対する読解力そのものが当時はまだ低かったため、単純に読み込みの質が悪かったことなどが挙げられます。

しかし、そんな原因に当時の私が気付くはずもなく、『魚の見る夢』を納得できるレベルまで読み込めるようになるために、私は結局2~3年の歳月を要することとなります。そんな挫折の中で「何故『ぼっち侵略』でできたことが『魚の見る夢』ではできないんだ?」という疑問が私の頭をよぎるようになります。その答えはまさに先述した通りなのですが、当時の私はこのような結論を出しました。

「私は『ぼっち侵略』だけを読み込もうと頑張ってきたから、同じ作家でも他の作品が読み込みきれないのではないか?」

つまり、自分の専門は『ぼっち侵略』という一作品だけに限定されるのではないか、と考えたのです。知識量ならともかく作品読解という点においては正しくない認識だったと言わざるを得ませんが、この自問自答を通して私は『ぼっち侵略』という作品により深いこだわりを持つようになっていきました。

また、2014年は『ひとりぼっちの地球侵略』5巻と6巻が発売された年でもありました。これらの2冊に2013年10月発売の4巻も含めた合計3冊の『ぼっち侵略』相手に、私はかなりの苦戦を強いられることとなります。4巻がそもそも複雑な内容だったということもありますが、5巻、6巻と話が進むにつれて、次第に私が発見できるオマージュの数が減ってきていたのです。皆無という程に減ったわけではありませんが、それを『ぼっち侵略』の物語と絡めて語ることにやや難儀するようになっていきました。

当時の私にとって「オマージュ」という手法は『ぼっち侵略』の語りを体よくまとめるために最も都合のいい存在だったため、私は大いに困ることとなります。そうした困難に対抗するため、2014年の私は『ぼっち侵略』という作品の読解において、オマージュをその中心から外すようになります。いくら物語が複雑になったとは言え、それが「物語」である以上は過去の話と繋がったものでなくてはなりませんし、作中の時間的な繋がりだけではなく描写や演出上の一貫性もそこには存在します。このことを意識するようになった結果、この時から私はそういった物語の連続性や一貫性に注目して読解をするようになっていきました。

当時の私は『魚の見る夢』を上手く読めない体験を「挫折」と解釈して苦悩していましたが、今思い返せばこの変化は紛れもない「進歩」だったと言えます。物語の読解により注力することで、私は少しずつ『ぼっち侵略』という作品のテーマと向き合う準備を整えていくことになるのです。

◆暫定的な「一番」という挫折

また、この頃の私にはもう一つ変化が起きていました。2013年頃から1年以上『ぼっち侵略』に関する情報収集を続ける中で、「私より『ぼっち侵略』に詳しい読者はもうこの世にはいないのではないか?」と諦めの気持ちが芽生えたのです。流石に1年間連載が続いている作品であれば、もし私より詳しい人がいるのであればとっくの昔に検索に引っかかっていなければおかしいですし、一方で私より作品を読む能力がある(と私が判断した)人に『ぼっち侵略』を読んで感想を語ってもらうという思惑も進捗は芳しくありません。自分より詳しい人を探すことを諦めるつもりは毛頭ありませんでしたが、一方で私が1年以上情報収集を行ってもトータルで私を上回る情報量を持つ感想や考察に出会えなかったこともまた事実でした。

この事実は、私自身の望みとは別のある焦りを私に抱かせました。このままでは『ひとりぼっちの地球侵略』という作品について、物語の読解やテーマの考察を通して作品の価値を担保してくれるようなファンの言説が存在しないままになってしまうのではないか、そう危惧したのです。どの作品にもそういったものが一つは存在すると思っていた当時の私にとって、これは非常に大きな問題でした。このまま作品が終わってしまうと、誰も『ぼっち侵略』を“ちゃんと”語ることができなくなってしまいます。それだけは何としても避けなければなりませんでした。

この状況を打開するため、遂に私は自分が暫定的に『ぼっち侵略』に一番詳しい人であると半ば認めることにしました。それは、自分が最良の『ぼっち侵略』読者であると誇ろうとしてのものではありません。どれだけ検索をかけても『ぼっち侵略』に詳しい人が見つけられないという事実を受け止め、ならば現状『ぼっち侵略』について最も情報発信を行っている自分こそが『ぼっち侵略』に一番詳しい人間に違いない、という現実に膝を屈したのです。

本来ならば、このようなことは「さいむ」にとって到底受け入れられることではありません。私は自分が『ぼっち侵略』しかまともに読解できない人間だと思っていましたが、一方で自分が『ぼっち侵略』という作品を真に読み解ける能力を持ち合わせた人間だとも思っていませんでした。だからこそ、私は「さいむ」としてインターネットに身を投じ、ひたすらに情報収集に没頭してきたのです。正直に言えば、私は現在でも時々「明日こそ自分より『ぼっち侵略』に詳しい人が見つかるのではないか?」と思ってしまうことがあるくらいです。『ぼっち侵略』の面白さや作品としての巧緻さに惹かれれば惹かれるほど、その深奥に辿り着けないのではないか、という不安が、私にどうしてもそのような思いを抱かせてしまうのです。ともあれ、『ぼっち侵略』を頭を捻りながらも楽しく読んでいた私にとって、これは一つの転機となる挫折になったのです。

◆ブログ活動、開始。

暫定的に『ぼっち侵略』について最も詳しい人間になった(と思うことにした)「さいむ」には、絶対にやらなければならないことがありました。それは「『ひとりぼっちの地球侵略』という作品についてできる限り情報を集め続け、この作品を読解した成果を誰にでも参照可能な形で発表し続ける」ことです。2014年まで情報収集を続ける中で、私は「作品に詳しい」ことを証明する方法を一つ思い付いていました。それは、ある人が他者から参照可能な形式で作品に関する知識や見解を提示した上で、それを他のどんな人間も上回ることができないのであれば、その人がその作品について最も詳しい人になる、というものです。

この証明方法の是非はともかく、暫定的であれ『ぼっち侵略』に一番詳しい人間となった「さいむ」にとって、これは重要な意味を持っていました。私より『ぼっち侵略』に詳しい人が現れるまで私が『ぼっち侵略』に一番詳しい人であるのなら、私が詳しさのレベルを自ら落としてしまったのでは本末転倒です。読解力も知識もないとしても、事実として最も「詳しい人」になってしまった以上は常に研鑽と努力を重ね、それでもなお届かぬ誰かに負けるのでなければならない。もしその程度のこともできないのなら、「詳しい人」などというレッテルをたとえ事実としても背負うわけにはいかないと考えたのです。

常に自分の知識と見解を提示し続け、常に他者からそれを評価判定される状態を作るためには、いつでも参照可能な媒体で整理された文章を書き続けなければなりません。その条件をクリアするために、私は遂にブログを始めることを決意します。そして、自分より詳しい人をきちんと見極める基準を手に入れるため、『ぼっち侵略』という作品の価値を未熟ながらも提示し続けるための戦いが始まることになります。

まず使用するブログの選定ですが、これは「はてなブログ」を選びました。大した理由は実はなく、強いて言うなら「はてなブログ」を利用しているフォロワーが比較的多かっただけだったりします。次にブログのタイトルを『舌足らずですみません(現:ぼっちQ&A!)』としました。自分の未熟さに対する恥や、それでも『ぼっち侵略』に「詳しい」人間として立たねばならなくなった申し訳なさを込めたタイトルでした。

こうして2014年12月24日、クリスマスイブに私は開設したブログに『ぼっち侵略』1巻を読解して情報を整理した記事を投稿します。「さいむ」が『ぼっち侵略』に「詳しい人」としてはっきり情報を発信した、これが最初の瞬間でした。

最初の記事。
記念すべき最初の記事。クリスマスイブの夜に書いてそのまま投稿しました。当然ですがその後はひとりぼっちのクリスマスになりました。

このブログ投稿は、私にさらなる二つの変化をもたらしました。一つは、これによって私が「さいむ」という存在を他者に見せること、他者に見られることにより敏感になったということです。もちろん、私が一番見て欲しいのは『ぼっち侵略』なのですが、その入口として私のブログを利用している以上、そこに気を配らないわけにはいきません。必然的に、私は『ぼっち侵略』を追いかけ続ける「さいむ」という存在について以前よりも考えるようになりました。

もう一つは、他者との意見の対立を強く意識し始めたことです。当然のことですが、自らを基準として作品について「詳しい人」を探すということは、自分より「詳しくない人」を決めるということでもあります。ブログの投稿を始めたことで、私はこの事実と改めて向き合うことになりました。「詳しくない」とはそもそも作品を読めていないことなのか、それとも読んだ上での解釈を間違えているということなのか?

作品読解や作品解釈の定義さえまともに持ち合わせていない私にとって、これらの問題は大きな悩みとなりました。それでも「詳しくない人」に対して、私は必要とあれば相手が「詳しくない」ことを言語化しなければならない状況に陥っていきます。「詳しさ」の定義をきちんと定めないまま走ってきた私の、当然の失敗だったと言えるでしょう。そうして、様々な問題の答えを上手く導き出せないまま他者への攻撃性だけがいたずらに強まる中で、私は新たな間違いへの道を歩んでしまうことになるのです。(続)

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[記事作成者:さいむ]