『生まれてきたことが苦しいあなたに:最強のペシミスト・シオランの思想』【山下泰春の「入門書」入門(第10回)】


◆古典の先生との話

突然だが、私は高校生の頃、ずっと「死にたい」と思って通学していた。中学を卒業後、張り切って進学校に入学したのはいいが、勉強があまり出来ず、さらには友人関係でも数多くの失敗をやらかしてきたため、高校で自分の居場所と思えたのは地学教室の片隅だった(昼ご飯はずっとそこで一人で食べていた)。

何とか生き永らえ、高校卒業間近になったある時、定年が近付いた古典の先生と一対一で話す機会があったのだが、その時根暗な私が話題にしたのが「人間はいつ自殺するか」というものだった。その時の会話は今でも鮮明に覚えており、思い返すたびに懐かしいような、あるいは虚しい気持ちになる。その時出た結論は、「人間は考える時間が増えると死の問題に向き合うことになる」というようなものだった(そういえば高校の時の現代文の授業の一環で書いたエッセイも、死ぬことについての論考だった)。

さて、このようなネガティヴな思想は概してペシミズム(悲観主義)と呼ばれるのだが、今回紹介する本が、そんなペシミズムの大家であるエミール・シオランについての入門書『生まれてきたことが苦しいあなたに:最強のペシミスト・シオランの思想』(2019,星海社,以下『シオランの思想』と呼称)だ。著者は『アレ』Vol.3にシオラン論を寄稿して下さった、“せみ“さんこと大谷崇さんである。

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◆エミール・シオランについて

まず構成的な話から入るが、この本は一部と二部に分かれており、前半がシオランという人物についての紹介を、後半がシオランの思想の検討をそれぞれ行っている。前半については、シオランを知らない方向け、あるいは多少は知ってはいるものの詳しく知らない方向けの内容となっているが、そもそもシオラン自体、翻訳こそそれなりに充実はしているものの、その多くは絶版であり、また訳者のあとがきなどでもシオランの生涯などについて触れているものは(筆者の記憶違いでなければ)あまりなかったはずなので、これだけでも非常に読む価値があるのではないかと思う。

続く後半部では、シオランのペシミズムについて、大谷さんの実体験と照らし合わせながら、やや批判的に分析している。つまり、前半部で扱ったシオランの思想が「思想」としてどの程度強度があり、説得力があるものなのか、またそこから引き出せるものとは一体何かを描いている。いかんせん、人のネガティヴな感情について延々と書き連ねた作家だから、それと照らし合わされる大谷さんの実体験は、真に迫るものがある。これはよくある成功者の話でも、場合によっては笑い話に済ませられるほど客観的に距離がとれた小噺でもない。それは現在も抱えている(かもしれない)人生の負債の話であり、極限すれば社会に対する怨恨まみれの呪詛である。

そのような呪詛は—大谷さんも書いていることだが—響く人にはとてつもなく響き、それ以外のいわゆるポジティヴな人間には全く効果がないものである。しかし、人は生きていれば必ず何かしら不幸な目に遭遇する(その典型が、誰かの死だ)。得てしてそうした時にこそ、人は改めて我が道を振り返ったりする。そのような事例を、大谷さんは「病気」を例に挙げて説明する。

病気は実在し、そして、人は病気にかかることによって器官の存在をはじめて強く意識する。私たちに胃があることは、日常的に知識として知ってはいる。しかし私たちが胃を持っていることを強く意識することはない。胃や消化器官が順調なかぎり、私たちは胃があたかも存在しないかのように食べ、これはおいしい、それはまずいなどと思うだけだ。(P.247-248)

このように、ネガティヴな人間は、人が日常的には「当たり前」だと思っていることに対して疑義を唱える能力(権利、とまでは言わない)がある、と言えるかもしれない。そうした意味では、シオランを単に「暗い」とだけ言って切り捨てることは、実にもったいないことだ。

◆ポジとネガの反転――ジンメルとの比較から

これまでネガティヴなことばかりを書き連ねてきたが、ネガティヴな感情も、突き詰めればそれが転じてポジティヴな意味を持つようになることもある。例えば「死にたい」と思う感情も、自分をもはや死んだ存在だと思ってしまえれば、むしろ開き直って何でもできる、といったように。こうしたポジとネガの反転、言い換えればある物事を二極に分け、その両方の見方を提示するような手法は、私見も入るが、大谷さんがシオランが影響を強く受けた人物として挙げている、ドイツの社会学者ゲオルク・ジンメルのそれとかなり共通するところがあるのではないだろうかと思われる。

例えば、ジンメルの「橋と扉」というエッセイでは、人間には物事を切り離したりあるいは結び付けたりする能力がある、と前置きしたうえで、橋は人間が物事を統合する(=ある地点と地点を結び付ける)能力の現れであるといい、また扉は切り離す(=ある空間から別の空間を区別する)能力の現れであると指摘している。もちろん橋も扉も、人間の営みにとってとても重要な事物であるが、それらをあえて対立的に描き、両者について機能的に述べていくジンメルの手法は、どの程度意識していたのかは分からないが、シオランにも受け継がれているものではないだろうか。

実際、こうした視点の推移は、シオランの「怠惰」について述べた箇所と比較してみると確認できる。ここにおける怠惰とは「行為の拒否」を指しており、朝起きられなかったり、仕事をするのがつらいと思ったりすることだが、シオランはこれを「悪徳」であると言う一方で、そうした「行為の拒否」こそ「美徳」であると述べたりする。そのような怠惰の二面性について、大谷さんはシオランの言葉を引用しながら(これは極端な例だが)、殺人は「怠惰ではない」からこそできると述べる。怠惰な人間であれば、人を殺そうと思っても動けなくなってやめてしまうからだ。こうして見ると、同じ「怠惰」であっても、悪徳にも美徳にもなりうるものであることが分かる。同じ怠惰という特性であっても、美徳にも悪徳にもなり得るということを機能という側面から描いているのである(註1)。

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◆最後に

人生は辛い、何をどうやっても辛い。幸福な時間よりも、苦痛を、あるいは幸福すらも耐え忍んでいる時間の方が圧倒的に長い……。思わずこのように書き始めてしまった結語の部分を、より文学的に、さらに深淵に書き連ねたのがシオランだ。だからある意味では、「健康な」人間にはこのような本は勧めづらいのかもしれない(逆に言えば、今苦しんでいる人間にとっては間違いなく響く本であると言える)。

だが、そうした人間でも必ず失敗する。今は成功していたとしても、悲しいかな盛者必衰が世の理、必ず衰える時が来る(何度でも言うが、人間は最終的には皆死ぬ)。そうした時に備えて、というのも変な話かもしれないが、シオランという毒素をあらかじめ接種しておくと、苦しみ悶える時間も少しは減るかもしれない。毒を以て毒を制すと言うのならば、まずは『シオランの思想』で軽めの毒を接種するのがいいだろう。

※この本が発売から二週間で重版が決定したとのことなので、この場を借りてお祝い申し上げます。全てのペシミストたちに呪いあれ!

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【註釈】

(註1)私はシオランについて多少は読み聞きしている程度の知識しかないが、彼のドイツ留学の経験については意外と掘り出してみると面白い知見が得られそうだ。

[記事作成者:山下泰春]