近年、デジタルゲームを社会に紐付けたり、その芸術的側面を分解して咀嚼する試みとしての「ゲーム批評」が盛り上がっている。
この1年で『デジタルゲーム大全』のような良書が上梓されたり、現在の批評シーンを引っ張っている東浩紀氏が代表を務める「株式会社ゲンロン」から発行された『ゲンロン8』が特集としてゲームを取り扱ったりした。また、批評は同人文化と密接に関わっているが、同人誌からもゲームを特集に組んだものが少なからず存在する。たとえば、批評系の大手サークルであり、昨年から様々な媒体にまで活動の垣根を伸ばした「エクリヲ」は『ゲンロン』より先にゲーム特集を組んでいるし、ゲームを専門とした同人サークルの姿は、文学フリマやコミックマーケットに足を運べば一目で確認できる。
今、ゲームはジャンルの垣根を超え、様々な場所で引用され、読み解かれている。このゲームを「語る」熱気は、批評の中だけで巻き起こっているものではない。事実、ゲームのルール付けを経済活動や生活の中に取り入れる「ゲーミフィケーション」は一過性のブームに留まってはいないようだし、生まれた畑は違えど、「遊び」としてのゲームと密接に関わりのある「ゲーム理論」は政策決定の場で活用されている。
そして、VRやARなどの仮想世界を実現させるテクノロジーの登場で、ゲームの社会進出は更なる局面に入ろうとしている。
【VtuberやVRの未来予想】ヴァーチャルのアレコレな話【アレ★トーク(1)】
◆ボードゲームとは何か
・非電源系ゲーム=ボードゲームか
一方で、現在語られている「ゲーム」から省かれてしまっているゲームジャンルも少なからず存在する。たとえば、アナログゲームがそれにあたるだろう。
本連載では、非電源系ゲームの中でも「ボードゲーム」、その中でも「ドイツゲーム」の派生にあるものを中心に語っていこうと思う。
「ドイツのボードゲーム」は、一般に以下のような特徴を持つ。
- 最大の特徴は、対象を子供から大人までとする、いわゆる「ファミリーゲーム」を指向している点である。
- ゲームのコンポーネント(内容物)はしっかりとした造作となっており、板状のボード、(多くは木製の)コマなどが用いられる。造形デザインや描かれるイラストもレベルが高い。
Wikipedia ドイツのゲーム「特徴」より一部引用
確かに、ボードゲームは地味だ。派手なエフェクトもなければ、最新の技術が用いられることはほとんどない。さらに、30代以下にとっての共通言語として「マリオ」以降のゲームが語られるのとは異なり、ボードゲームはマイナーなジャンルだ。こんな風に、なぜボードゲームはあまり語られないのかについて理由を挙げていけば、それなりの数が出てくるだろう。
また、仮想空間で遊べるようになった今、「ボードゲームとは何か?」という問いを、勘のいい読者ならば思い浮かべることができるだろう。
今までは、ボードゲームは現実世界で遊べるから、電源を使わずにエコなゲームだから……といった「非電源ゲーム」という側面ばかりが注目されてきた。しかし、現実ではデジタルでボードゲームを遊ぶ手段はいくらでもある。
オンラインでプレイする『カタンの開拓者たち』や『ドミニオン』は一昔前から存在するし、BoardGameArenaのようなオンラインボードゲームサイトも存在する。また、著作権上グレーではあるが、「Tabletop Simulator」のようなシミュレーターを使えば、ありとあらゆるテーブルゲームをオンラインでプレイすることが可能となる。VRヘッドセットを装着して、オンライン通話を繋げながらボードゲームができるようになる日も近い(というより、言うまでもなく現在の技術で実現可能である)。
また、アナログな形をとらない、ボードゲームの様なゲームも存在している。『アルメロ』や『桃太郎電鉄』、複雑なものなら『Civilization』などがそうだ。
そのような中で、もはやボードゲームを「非電源系ゲーム」としてのみ語ることに、筆者は些か違和感を覚える。もちろん、ボードゲームは電源がなくても遊ぶことができる。しかし、それだけがボードゲームではないと筆者は考えているのだ。
・実現可能性と公平さ
では、筆者は何をボードゲームと捉えているのだろうか。
それは、一言で言ってしまえば「非電源環境でも実現可能なゲーム」である。
……と、このように書くと当然のことを言っているように聞こえるかもしれないが、この条件を満たすためには、いくつかの要件を満たさなければならない。
たとえば、デジタルゲームをアナログでやろうとする時、「キャラクター」や「食料」は、それぞれ「駒」や「カード」などに置き換えなければならない。プレイヤーの「運」でさえもサイコロやカードの引きによって可視化されていなければならないし、デジタルならほんの数秒で終わる計算式を紙とペンで行う必要が生じる。これを満たせないゲームはボードゲームではない(たとえば、アクションゲームのキャラクターの動きを駒で再現することは不可能だ)。
何より重要なのは、上記のことを行うために、全てのルールがオープンになっていなければならないということだ。駒はどう動かすか、ある行動に伴う確率は何%か、ゲームの終了条件はいくつあり、それぞれどういう条件かetc……。
こうして考えると、ボードゲームとは「非電源環境でも実現可能なゲーム」であり、これは言い換えれば「プレイヤーに全てが開示された、公正なゲーム」だと言うことができるのではないだろうか。
◆ボードゲームを語る意義
・現実の縮図としてのボードゲーム
結局のところ、全てのアナログゲームはデジタルで表現可能だ。では、なぜボードゲームを語るのか。それは、ボードゲームが持つ「公正さ」に起因している。現実を題材としたボードゲームに顕著なことだが、ルールが公正に開示されることは、ゲームをデザインする上で障害となる。なぜなら、私たちが生きる現実は、全てが公正かつ明確に開示されているわけではないからだ。それゆえ、プレイヤーにとって把握しやすいルールをデザインするために、現実を題材としたボードゲームでは、デジタルゲームが現実を引用する時よりも、対象を簡略化することになる。
そして、その現実と盤面の乖離を見ていくことは、「ゲームではこうだが、これは現実とはここが異なるよね」といった風に、現実世界をより分かりやすく読み解くことに繋がると筆者は考えている。一言で言うと、ボードゲームは現実世界の縮図なのである。
・何を楽しみ、何を語るか
また、公正なゲームでは、ルールブックを読み解くことで最適解を見出すことが可能である。しかし、その最適解を使っても、実際のプレイの中で常に勝ち続けることができるわけではない。運の要素と、他のプレイヤーの読み切れなさという不確実性が残り続けるからだ。個人的には、その不確実性の中で状況に合わせて思考を巡らせたり、コミュニケーションをとることがボードゲームの楽しみだと思う。
しかし、言ってしまえば(全ての、と言ってしまってもいいかもしれない)ゲームは「勝つこと」だけを目的にした場合、最も効率的な解答を見つける営みであり、それが済んでしまったゲームは「作業」でしかないというのは間違いないだろう。
もちろん、この作業化への道はゲームの楽しみ方の一つであるし、筆者もそうした楽しみを享受するプレイヤーの一人である。しかし、ゲームの楽しみ方は何もそれだけではない。ゲーム中の会話を楽しむ人もいれば、駒になりきって遊ぶ人もいる。楽しみ方は人それぞれだ。ゲームは固定の「勝ち方」を特定のシステムとして提供しているが、「楽しみ方」は固定の形として提供されてはいない。結局、ゲームの「楽しみ方」について、ゲーム開発者はそれを見つける手助けはしてくれるものの、最終的にはプレイヤーが自力で発見するしかない。ゲームとは楽しむものではあるが、同時に楽しみを創造し、見つける遊びでもあるのだ。
少し話が逸れたので、ボードゲームに話題を戻そう。ボードゲームの魅力は、こうした楽しみの多くを、つまりは勝つための思考やコミュニケーション、駒になりきった動きなどの結果を、終了時の盤面で明確に示してくれることだ。
盤面は、一種の記録媒体である。そう言われても分かり辛いだろうから、ここでは「ピラミッド」で例えてみよう。ピラミッドはファラオが命令し、多くの労働者が動員されて建築された。材料は専門の職人が石材をカットし、労働者の健康を維持するために医療を担当するものもいたと言われている。1つのピラミッドは、様々なステークホルダーの連帯によって生まれたものだ。こうして考えてみると、ピラミッドはその結果だけを示す記録媒体だと言うことができる。そして、私たちはピラミッドを見ることで、当時の様子を想像し、考察し、研究することができる。
ボードゲームの盤面も、今挙げたピラミッドと同じである。終了時の盤面を見るだけでは何も分からない。しかし、想像力を働かせて、駒の配置や最終得点を見ることで、運の要素や他者との関わりだけでなく、そのゲームの持つ要素について「語る」ことができるのではないかと筆者は考えている。そしてそれは、先に述べたように現実の縮図を語ることに繋がるのではないだろうか。
◆おわりに
さて、以上の内容は、実は既に『アレ』Vol.3の拙稿「『盤面』から日常へ:ボードゲームについてのコラム、あるいは覚書」の中で語ったことである。本稿は、その内容をかなり端折って紹介したものだ。1年前に執筆したものなので改訂したい部分は多々あるが、それはまだ大分先の話になりそうなので、詳しく読みたい方はとりあえずはそちらを読んで欲しい。
ここまで、簡単にではあるが、なぜボードゲームを批評するかについて語ってきた。本連載では今後、上記の内容を踏まえながら、個別のボードゲームについて語っていこうと思う。
繰り返すようだが、ゲームとは楽しむものであると同時に、楽しみを創造し、発見する遊びでもある。本連載では、ボードゲームを何かと紐付けて「語る」楽しみを創造できたらと筆者は思っている。
画像はドイツゲーム『カルカソンヌ』より。筆者が最もプレイしているボードゲームである。
ルールについてはこちらで解説しているので、是非プレイして欲しい。
次回:【ボードゲーム批評】『カタン』と交渉:貧しい島と富める島【盤面は語る(第1回)】
[記事作成者:堀江くらは]