『カント入門』:人間の「理性」は正しいか?【山下泰春の「入門書」入門(第1回)】

◆入門書に「入門」する

 巷にはさまざまな「入門書」が流布している。しかし、その中には「初学者が読んでも理解できるか」というと、なかなか怪しい入門書もしばしば存在している。例はわざわざ挙げないが、それはたいていある程度の前提知識がないとそもそも話の筋が理解できないような入門書だ。そこで、今回から筆者は「入門書」入門で「正しく入門できる」、言い換えれば「前提知識がなくてもその学問に『入門』できる」入門書を書評という形式で紹介していくことで、特定の学問(あるいは学説)について一定の知識を得るための窓口を示していく。したがって、紹介する本は必ず前提となる知識を必要としない、あるいは本の最初の方で十全に説明されるものに限定する。

 そして、その第一回はドイツの哲学者イマヌエル・カントについて書かれた、その名もズバリ『カント入門』(石川文康、1995年、筑摩書房)という書だ。ちくま新書からは様々な「入門」シリーズが出版されているが、その中でも群を抜いて理想的な「入門書」となっているのがこの本であると筆者は考えている(同シリーズには逆に全く入門させる気がないと思われるものもあるので、意外と当たり外れがある)。kantnyuumon.jpg

 ドイツと言えばしばしば「詩と哲学の国」と言われるように、詩文芸や哲学についての本が多く、いわゆる「難解な」話を繰り広げる傾向が強い。とりわけ、そうした「難解な」哲学の代表格として語られることが多い人物がカントだ。カントの書くドイツ語は日本語に劣らず「造語癖」が強いとも言われ、哲学という分野においてそうした造語癖を発揮した代表的な人物の一人として数えられる。例えば「非社交的社交性」(=人と関わりを持ちたくない、一人になりたいと思う感情)や、カントがその名を哲学界に轟かせた哲学書である『純粋理性批判』などでは、そうした「造語癖」がふんだんに発揮されている。

◆理性は信頼に足り得るか?

 では、そうした複雑な語彙が頻出するカントの哲学は、一体全体どういうことを語りたかったのか、あるいは何を解き明かそうと考えていたのか。そうしたことを当時の哲学界隈の背景を踏まえて記した良書が『カント入門』である。一般的にカントは、「イギリス経験論」つまり「人間の物事の考え方は日常で経験してきたことから帰納的に構成されている」という考え方と、「大陸合理論」つまり「人間の物事の考え方は最小限の規則を演繹することで構成できる」という考え方を統一しようとした人物として高校の社会や倫理という科目で紹介されている。しかし、それをどうやって、またはどういう目的で行おうとしたかについては、テストやセンター試験の範囲から「はみ出る」ため、知らないという人も多いのではないだろうか。

 では、カントとは結局何をしようとした人物だったのか。石川によればカントは『純粋理性批判』から始まる一連の「批判哲学」によって「理性の欺瞞的本性」を、つまり「理性」という一般には「信頼に足る」ものとして考えられるものが時として人間を欺くこともあり得るということを解き明かそうとした人物である。哲学にとって「理性」は、「感情」に比べて高次の概念であり、また「真理」や「正義」などにも関係してくる重要な概念ではあるが、いったいそれは正しく機能し得るのかという問いを、カントは立てたのである。

 そして、そうした問いを解き明かすためにカントが用いた手法が「二律背反」つまり「アンチノミー」だった。カントは「ひとつの命題を証明し、同時にその反対の命題をも証明」することによって、言い換えれば「理性がみずから自己矛盾におちいるさまをそっくり提示する」ことによって、理性というものが実に怪しいものに思えるように仕向けたのだ。例えば石川は、カントが立てた次の四つのアンチノミーを紹介する。

・第1アンチノミー
テーゼ(命題):世界は空間・時間的に始まりを有する(有限である)。
アンチテーゼ(反立):世界は空間・時間的に無限である。

・第2アンチノミー
テーゼ:世界における一切のものは単純な部分から成る。
アンチテーゼ:世界における合成されたものは単純な部分からは成らない。単純なものは存在しない。

・第3アンチノミー
テーゼ:世界は自由による因果性もある。
アンチテーゼ:自由なるものは存在せず、すべてが自然必然的法則によって起こる。

・第4アンチノミー
テーゼ:世界原因の系列の中には絶対的必然的存在者がいる。
アンチテーゼ:この系列の中には絶対的必然的存在者はいない。そこにおいてはすべてが偶然的である。

これら四つのアンチノミーはいずれも世界の究極的な問いともいうべき問題と関係している。いわば「理性」が解き明かすにふさわしい、世界の根源的な謎だ。しかしこれらは「アンチノミー」と言われているように、いずれも解き明かすことができない命題だった。カントがいかにしてこれらのアンチノミーを「克服」したかについては実際に書物にあたって頂きたいが、いずれにせよ重要なこととしてカントは、上記のアンチノミーはいずれも「問いの立て方が間違っている」と考える。

 第一アンチノミーに限って言えば、「世界は空間・時間的に有限か、それとも無限か」という問いは、突き詰めて言えば「世界はそもそも量的に還元できないのではないか」という疑問に突き当たることになる。それを石川は「マネキン人形を相手に、男か女かを問題にすることと同じ」と述べている。つまり実際に「性」を持たないものに対し、男か女かを判定する方法はないためである。そしてあらためてカントは第一アンチノミーから、世界はそもそも量的に還元不可能であり、それどころか世界は実は私たちの主観によって構成されているという結論を導き出す(※1)。誤解を恐れずに言えば、このことを長々と論理立てて説明した本こそが『純粋理性批判』と言っても過言ではないだろう。

◆カントに哲学を「学ぶ」ために

 ここまで、問題意識およびその問題の解決のための方法という観点からでカントの哲学について紹介したが、『カント入門』がまさに入門書として適格だと筆者が考える理由こそが、まさにこの観点にある。一般的にカントにまつわる伝記や哲学の概説書は多いが、カントがどういう問題意識があり、その解決のためにどのような手法をとった結果、その問題はどのように「乗り越え」られたのかを道筋を立てて説明した本は、実はそこまで多くない。しかしこの『カント入門』は、概説するだけでも難しいと思われるカントの哲学を、彼の問題意識を出発点に再構成し直した上で説明していく。『純粋理性批判』はなによりもまず、彼の理性に対する不信感から始まったのだ。そこから『道徳形而上学の基礎付け』、さらに『実践理性批判』において人間の自由について=人間理性においてどのようなことが可能かを考察し、最終的には「理性と神との関係はどうあるべきか」という問いにまで到達するという流れは、カントに「入門」する上で適切な視座を提供してくれるものだと筆者は確信している。

 惜しむらくは、「第三批判」にあたる『判断力批判』に割かれた紙幅が他の主著に比べると少ないという点だ。しかし、それに関してはドニ・ユイスマン著の『美学』(久保伊平治訳、1953年、白水社)などが「美」についての哲学的な歴史から説明しているため、そういった本を当たればいい。また、カントという人物があまりに哲学者然として語られることが多いことに違和感を覚えた中島義道という哲学者が、カントも偏見や嫉妬にまみれた一人の人間であることをカントの手記や書簡などから解き明かした(ややゴシップ風の本だが)『カントの人間学』(1997年、講談社)という本も存在する。カントを「立体的に」学ぶ上ではこうした本も有益であるのは間違いないが、カントの根底を貫く問題意識をベースに彼の哲学に「入門」する上では、やはりこの『カント入門』が最良の書であると言えるだろう。

kantningen

【注釈】
※1
これがいわゆる「コペルニクス的転回」である。つまり「[われわれの]認識が対象に従うのではなく、むしろ対象の方がわれわれの認識に従」っていることを明らかにしたのだ。そこからカントはさらに人間固有に備わっている認識能力の限界を定めるため、『純粋理性批判』でその内実を解き明かしたのだが……それについてはこの記事を参照されたい。カントの認識論が楽しく学べるだろう。

次回:『理性の限界』:人間はどこまで「可能」か?【山下泰春の「入門書」入門(第2回)】

[記事作成者:山下泰春]

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