「身震い」のホラー:『しらない星のあるきかた』について


前回のSCPについての記事然り、相変わらずホラーが好きな筆者だが、昔からフリーのホラーゲームにも没頭していた(※1)。有名どころで言えば『青鬼』『Ib』『ゆめにっき』やその派生作品である『.flow』『夢日誌』などもプレイしており、ドット絵で描かれるホラーに愛着を覚えている。そこで今回は、フリープレイ可能なホラーゲームを紹介し、極力ネタバレにならない程度で解説していくことで、ホラーゲームが持つ「怖さ」について考えていきたいと思う。

さて、今回紹介するホラゲーは、『しらない星のあるきかた』(以下、『しら星』)という、2018年7月18日に公開されたばかりの作品だ。制作者のせがわ氏によるフリーゲーム3作目にあたるこの作品は、これまでせがわ氏が制作してきた2作品(『ミノニヨクシティ』『END ROLL』)とは異なる「ほのぼのおつかいゲーム」である。これまでの氏の作品をプレイしていた人からすると、この文言が絶対に嘘だとすぐに気付くはずなのだが、ともあれ名目上は「ホラー」ではない(※2)。しかし、そうは言ってもこの作品でいわゆるホラー表現が多々見られることは事実だ。詳細は後述するが、それは端的に言って私たちに「身震い」を引き起こさせるようなホラーである。

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『しら星』のスタート画面。実はここにもある仕掛けが施されている。

まずはこの作品のあらすじについて簡単に説明しておこう。オウル族という種族のエディとフクローという兄妹が、宇宙を旅していた時にエンジントラブルに遭い、カルプッカ星という謎の惑星に不時着してしまう。そのカルプッカ星で年に一度開かれている「グルメイト料理大会」という大会で優勝すれば、星の女神様なる存在が「願いを一つなんでも叶えてくれる」という。そのことを知った二人は、壊れてしまった宇宙船を修理するためにその料理大会に出場する……という物語だ。作中の時間では三日間ほどのシナリオであり、公式には想定プレイ時間は「ストーリーだけなら2、3時間。やりこもうとすると10時間くらい」とされているように、その三日間のあいだに謎の惑星の様々な場所へ寄り道しながら探索していくのが基本的な遊び方だ。

せがわ氏いわく、この作品には「小さじ一杯」のホラー要素が含まれている。それは、カルプッカ星がかつて侵略戦争に遭ったという設定に要約できるだろう。主人公たちが料理大会の材料集めの奔走中、そうした過去の出来事に触れるたびに、かつての戦争の傷跡が生々しく襲い掛かってくる。

『しら星』における、一見すると可愛らしいキャラクターたちにもそれぞれ独自の過去の「重み」があるという設定は他のせがわ作品にも顕著な設定で(そしてしばしば日数の経過と共にそれらが露呈し始める)、他のフリーホラゲーにもよくある設定だ (※3)。この作品をプレイして筆者は、そもそもホラーというものは過去を想起するうちに違和感として、あるいは「身震い」として表出してくるものではないか、と思い当たった。

レヴィナスが第二次大戦中に執筆した書。彼はこの本の中で、倦怠や怠惰、疲労した状態でも身体は動かさざるを得ないことを述べている。

「恐怖」ついて考えを巡らせた哲学者として、フランスのエマニュエル・レヴィナスという哲学者がいる。彼は『実存から実存者へ』(1978)という本の中で、恐怖とは私たちの意識から「主体性」そのものを剥奪し、単なる〈ある〉という状態へと変化させる運動だと説いた(※4)。つまり「恐怖」とは、主体が経験している様々な出来事を経た上で改めて過去を想起し、その出来事を再び主体へと統合するような運動そのものを否定するものだと考えられる。

噛み砕いて言えば、たとえば一人の人間が自身の過去について思い返す時、その人はそうした回想によって「私はこのような過程を経て、今の私に辿り着いたんだ」という確信を抱くことが往々にしてあるだろう。この時、私は私が経験したことが今の私自身を作り上げていることを自覚する。しかし、恐怖はそうした「今の私」を脅かすような出来事であり、「私」を言わば途方に暮れさせるような出来事である。そして、恐怖し立ちすくむ「私」は「身震い」するより他にない。

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「ユーネリウム街道」表。一見すると何もない街道だが……?

今筆者が述べたレヴィナスの考えから導き出せることは、ホラーとは「何かに追いかけられる」や「突然何者かが目の前に現れる」といったいわゆる「ドッキリ」的な恐怖とは異なり、まさにホラーの語源である「身震いする(horror)」ような体験のうちにある、ということだ(※5)。真相を知って恐怖するという体験も確かにホラーだが(※6)、日常に潜む何かがきっかけとなって突然日常が別の世界のように思える体験こそが、文字通り最初の「身震い」ではないだろうか。

『しら星』において、まさにそうした別世界を体験させる場所の一つに「ユーネリウム街道」という場所がある。そこは一見すると何もない街道なのだが、主人公たちがとあることをすると、突然終戦直後の時間軸へと移動することになる。そこでは、過去の戦争で死亡した兵士たちが「サカサ」という亡霊となって現れてくるのだが、もちろんこれ自体はよくある心霊現象の怪談話と同じかもしれない。しかし、それはたとえば「深夜に心霊スポットに行ったらいるはずもない子供が現れた」とか「亡くなった友人からくるはずもない着信がきていた」とかいった「突然襲い掛かってくる」ような類のものではない。

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「ユーネリウム街道」裏。「サカサ」たちが呪いの言葉を投げかけてくる。

実際、そこに出てくる「サカサ」たちは主人公に襲い掛かってくることもなく、ただただ「星のヒト(=異星人)」に対して(これには主人公たちも含まれる)恨み節を投げかけるだけで、危害を加えてくる存在ではない。しかし、それでも彼らに出会う前と後とでは、プレイヤーのユーネリウム街道という場所に対する見方が大きく変化させられることになる。そのため、「ユーネリウム街道」は概してドッキリを引き起こすというよりは、むしろ「身震い」を引き起こす場所であると言えるだろう。

ともあれ、この記事の冒頭でも触れたように『しら星』は完全なホラー作品ではなく「ほのぼのおつかいゲーム」であり、主人公たちはどこまでも楽天的で、どんな状況に陥っても決して心が折れたりしない(そのせいで却ってプレイヤー自身の心が折れるかもしれないが)。ストーリー進行上、寄り道をしなければ避けられるホラー要素もいくつか存在している上、ストーリー自体の分岐もフリーゲームとは思えないほどたくさん存在しているため、キャラクターのセリフの微妙な差異を確認し始めるとおそらくキリがないだろう。

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主人公のエディとフクロー。基本的には本当に「ほのぼの」としている。

実際、筆者も少なくとも12時間以上はプレイしたが、未だに全部のセリフを見たとは言えない状況だ(それでも一応全ての大まかな分岐のパターンは発見し、確認した)。攻略サイトなどはまだ作られていないが、むしろそれゆえに「寄り道」する楽しさを発見できるかもしれない。8月に入って間もないということもあり、ホラーの季節になった今、いわゆるドッキリ系のホラーではなく「身震い」するホラーとしてこの作品をプレイしてみてはどうだろうか(以下、『ミノニヨクシティ』と『END ROLL』のネタバレあり)

余談になるが、『しら星』におけるこうしたホラー演出は、せがわ氏の過去の2作品とは明確に異なると筆者は考える。たとえば『ミノニヨクシティ』は、主人公であるピギュラ自身が実は既に死んでおり、表題の「ミノニヨクシティ」という死者の町で様々な人物たちと交流するうちに自らの死を「自覚」していく物語なのだが、上記のような観点からすると、「死後の世界」という特殊な(しかしホラーとしてはある種オーソドックスな)舞台設定なため、良い意味でも悪い意味でも「なんでもあり」の世界が構築されることになる。

また、次作である『END ROLL』も、殺人犯の主人公ラッセルが「HAPPY DREAM」という注射による麻酔効果で生み出される世界が舞台であるため、どのような表現も「主人公の見ている幻覚」として切り捨てられてしまうことになる。実際、作者が「絶望系RPG」と表現しているようにどのエンディングも救いはなく、いっそのこと「HAPPY DREAM」が生み出す「ハッピードリーム現象」に沈んでいった方がむしろ救いがあるように感じてしまう。

このように、『しら星』以前の2作品では「罪の自覚」と「主人公の死」のテーマが不可避のものとして描かれている。一方、『しら星』はあくまで死者の世界と隣接している生者の世界が舞台となっており、ファンタジー要素こそあるものの、より明確に私たちの日常性と繋がるものがある。それゆえに『しら星』を通して私たちは、他の2作品以上に却ってホラー要素に「身震い」することになるのではないだろうか。

<記事内で紹介したせがわ氏の作品>
・『ミノニヨクシティ』
https://nantekotodesyoune.wixsite.com/minoniyoku

・『END ROLL』
https://nantekotodesyoune.wixsite.com/endroll

・『しらない星のあるきかた』
https://nantekotodesyoune.wixsite.com/shirahoshi

【註釈】
(※1)
筆者は『アレ』Vol.4でフリーゲームが好きだと公言している。

(※2)
「Freem!」での同作紹介ページには「ホラー・グロ・鬱要素もすこしだけ混入してますが、小さじ一杯です」というせがわ氏本人のコメントが書かれている。

(※3)
たとえば『つぐのひ』や、公開が終了してしまった作品だが『4Fやすら科病棟』など。

(※4)
レヴィナス,西谷修訳,[1981]1984=1987,『実存から実存者へ』朝日出版社,P. 96ー7を参照。

(※5)
レヴィナスの別の論考に従えば、そのような差し迫ったホラーとは「危険」と呼ばれることになるだろう。それはつまり、ただ〈ある〉ということによる恐怖とは「死ぬかもしれないという危険ではないし、苦しむかもしれないという危険ですらない」のである。もっと言えば、「恐怖は危険に由来するのではない」(レヴィナス,合田正人訳,1946=1999,「ある(イリア)」『レヴィナス・コレクション』筑摩書房,P. 224-5)。

(※6)
たとえば『魔女の家』『マッドファーザー』など。

[記事作成者:山下泰春]