「ハッカドール」のサービス終了に寄せて:キャラクター・メディア・メッセージ


◆サービスの終了

先日の8月15日、2014年より稼働していたニュースアプリ「ハッカドール」が終了した。8月25日には「ハッカドール THE めもりあるぱ~てぃ!!!」が開催されることが予告されてはいるが、それでもサービス自体の終了については、多くのファンが悲しみの声を漏らしていた。アプリ自体は現在、「アルバム」機能と「あら~む」機能が残されており、これまで掲載されていたハッカドールの絵やボイスをいつでも閲覧(特に後者については、「あら~む」機能として利用できる)できるようになっている。さらに、アプリ内において「システムの再構築」が予告されており、新サービスの発表か、あるいは別の何かが予告されている。

筆者自身はあまりアニメや漫画のコンテンツ自体を追いかけている訳ではなかったため、正直アプリ自体の稼働率はあまり高くはなかった。アプリ内で獲得できるバッジやギフトは集めていたものの、むしろそれのためにニュースをチェックしていた、と言った方が適切である。筆者自身の事情はともかく、多くのユーザーが「自分に合ったニュース」を日々受けとり、自身のオタクライフを充実させるために利用していたこと自体は間違いないだろう。

最初は2018年4月1日(動画のアップロード自体は3月31日だが)、つまりエイプリルフールのネタとして、「ハッカドール」の公式キャラクターであるハッカドール1号がバーチャルYouTuberとしてデビューしたり、またその後はハッカドール2号および3号もバーチャルデビューしたり、さらには数多くの企業とコラボしたりと精力的な活動を見せていた。

◆ハッカドールのオリジナリティとは

そんな「ハッカドール」が、何故アプリの廃止につながったのかについては、ここでは多くは触れない。ただし、公式としては「みなさまの期待にお答えできるような、ニュースアプリサービスを継続提供していくのは難しい」と述べており、その文章から収益化が難しかったとする説や、あるいはニュースアプリというコンテンツ自体の独自性が欠けていたという説が挙げられてはいる。

確かに、ハッカドールの中身は言ってしまえば「まとめサイト」的であり、それをユーザー好みにカスタマイズできるという点に、ハッカドール1号~3号(+0号および4号)という人格性を与えたことが、ハッカドールの独自性であるとは言えるだろう。その人格性は、もちろんニュースが彼女たちによって選ばれているという物語として機能する一方で、例えばアプリがユーザーが興味のない情報を与えてしまうという「間違い」が生じ得るということをも、そもそものメディア自体が持つ恣意性や偏向性に関して代償的に機能させているとも言える。つまり、「あなたにとって有害かもしれないニュースを見せてしまったことは、ハッカドールというキャラクター自体がポンコツであるからであり、そのためユーザーとともに成長して間違いを減らしていこう」といったメッセージとして理解できる、ということだ。

このような「ユーザーとともに成長する」といった要素は、例えばさやわか『僕たちとアイドルの時代』(2015年,星海社)におけるアイドル観の変遷についての考察に通ずる点があると言える。つまり、秋元康が述べた「進化系」アイドルとしてのAKBという考えや、活動を「応援」する対象としてのアイドルといった考え方は、ユーザーを「捗らせる」ために日々奮闘していたハッカドールにも当てはまるものであるだろう。実際、主にニュースを集めている(とされる)ハッカドール1号はやる気に満ち満ちたポンコツ娘、ハッカドール2号はおっとりしているうっかり屋のお姉さん、ハッカドール3号はやる気のない男の娘として描かれており、そうした物語を駆動させるためのある種の欠点を備えている。

そうした意味では、ハッカドールはマクルーハンの古典的なメディア論の命題である「メディアはメッセージである」という文を通して見ると、その独自性が際立って見える。というのも、ハッカドールというメディアは、私たちに二つのメッセージを同時に示しているのである。つまり、メディアと形式との関係については、①メディアはつねに別の形式のメディアをコンテンツとして内包するということを、メタ的な次元において達成しているということ、平たく言えば「まとめサイト」のまとめサイトとしての自律性を獲得したということ、そして、メディアと内容との関係については、②私たちの意識をコンテンツという内容ではなくメディア自体の形式に移させたということ、つまり「ハッカドール」というキャラクター達の物語として駆動させたということである(註1)。まとめると、ハッカドールは、メディアの(メタの)メディアとしての自律性とキャラクター性の融合(もしそう言いたければ、共犯関係)にこそ、その独自性があったと言える。

◆最後に

長々と書いたが、この記事の冒頭でも触れたように、ハッカドールというコンテンツ自体はまだ完全に終了したという訳ではない。これは筆者自身の希望的観測とはなるが、ハッカドールは今後も生き続けるだろう。というのも、一つのコンテンツの完全な終焉とは、もはや誰一人としてそれについて覚えていなくなることなのだから。

「マスターさん、5年間ありがとうございましたっ!」(https://youtu.be/fpzj5kROylg)より。

◆余談

先日、私用で秋葉原に行く機会があり、その際にアニメイトに立ち寄った際、個人的に推しているハッカドール3号のグッズのみが完売しているという事態を目撃した。かなり悲しい事態ではあったが、知人に聞いてみても、他の店舗でもほとんど全滅しているとのことだったので、ハッカドールの中でも3号単体の人気の凄まじさの一端が伺えた。実際、ハッカドールの同人誌(ハッカドールは同人誌の存在を公認している)においても、3号が描かれることが多く、いわゆる「男の娘」界隈においても、ある種不動の位置に就いていると思われる。ハッカドール3号はいいぞ。

(筆者撮影)

【註釈】
(註1)マクルーハンとコンテンツの関係についての理解は、ポール・レヴィンソン『デジタル・マクルーハン――情報の千年紀へ』(1999=2000,NTT出版)の分析に負っている。ただし、①について、これが根本的には何ら新しいことを指し示している訳ではないことは留意すべきである。つまり、メディアの内容とは「別のメディアなるもの」(マクルーハン,1964=1987,『メディア論――人間の拡張の諸相』みすず書房: 9)という命題以上のことは指し示していない。

【記事作成者:山下泰春】