前回:【第1回】その日、運命に出会う(私が『ひとりぼっちの地球侵略』と共に辿り着いた「コンテンツ」の限界)
◆そのとき「さいむ」が生まれた
『ひとりぼっちの地球侵略』(以下『ぼっち侵略』)の2巻が発売されてから一ヶ月以上が過ぎた2013年初頭、相変わらず友人にぼっち侵略のルーズリーフを書き続けていた私は、ある問題に直面していました。友人に『ぼっち侵略』を紹介しても、中々買ってくれないのです。
第1回で書いたような無理矢理で独りよがりな勧め方をしていた以上、手に取ってもらえる段階に中々至らないのは想像に難くない展開ではありましたが、このままでは目標である「私より『ぼっち侵略』に『詳しい』人を探す」ことが叶いません。焦りは日に日に増していました。
もっとも、当時は自分の中での「詳しい」という定義さえ曖昧で、「何となく知的そうで作品について沢山語れそうな人」、あるいは「ぼっち侵略についてついて私より沢山語ってくれる人」ぐらいの意味でしか考えていませんした。今思えば、「作品に詳しくなる」ということはそういうことでは全くないのですが(もっと言えば『詳しい』かどうかだけを基準にすること自体おかしい)、とにかく当時の私は『ぼっち侵略』に「詳しい」人こそが私の疑問を解決してくれると無根拠に信じていたのです。
そんなある日、私はふと思いつきました。
「そうだ、インターネットで探そう!」
2chを覗く習慣すらなかった当時の私にとって、インターネットとはすなわちニコニコ動画の世界でした。そこでは作品に「詳しい」人があれやこれやと盛り上がっている様子がコメントから窺えます。そんな様子から私は、「インターネットではどんなに人気のない作品にも必ず一人はもの凄く「詳しい」ファンが一人はいて、彼らが全てを教えてくれるんだ!」と壮絶な勘違いをしていたのです。『ぼっち侵略』の作者である小川麻衣子先生がTwitterをされていたことから私もTwitterを媒体として選択し、インターネットへの進出を始めました。
Twitterを始めるに当たって、一番悩んだのはアカウント名でした。散々悩んだ末、私が高校生の頃とても好きになって制服のポケットにいつも忍ばせていた小説『木曜日だった男』(※1)の主人公「ガブリエル・サイム」から名前を取ることにしました。サイムのように、たとえ相手が畏れ敬うべき神であったとしても、立ち向かいあるいは問いかけることを止めないという思いが、そこには暗に込められていました。こうして「さいむ」というTwitterアカウントは誕生したのです。2013年3月、『ぼっち侵略』で言えば3巻の内容が連載されていた頃でした。
このとき、私は「さいむ」というアカウントを『ぼっち侵略』のためだけに作り上げたペルソナとして使い倒す予定でした。『ぼっち侵略』のためにTwitterを始めた以上、「さいむ」も『ぼっち侵略』を探求するために存在する人格であって欲しいと願ったのです。
◆情報収集、開始
そんな「さいむ」がTwitterで最初に行ったのは検索でした。『ぼっち侵略』について知るため、まずは手に入る情報を一通り集めようと考えたのです。「ひとりぼっちの地球侵略」あるいは「ぼっち侵略」、二つのキーワードでTwitterに検索をかけ、ツイートしているアカウントをフォローしては様子を見る、そんな日々が続きました。余談ですが、この検索が今も毎日続いていることは前回の冒頭に書いた通りです。
Twitterを始めて以降、検索するキーワードを適宜追加・変更しながら私は5年間ほぼ毎日検索を続けました。このことについて全てを語ることはしませんが、どんなときでも『ぼっち侵略』の感想をTwitterからかき集め、興味深いものは全てメモしてきました。「さいむ」のメイン活動の一つと言っても過言ではありません。「まだぼっち侵略に関して私の知らないことはいっぱいある」「自分より『ぼっち侵略』に『詳しい』人はきっとインターネットのどこかにいる」そんな希望を託して、私は『ぼっち侵略』の感想を集め続けていったのです。
そうして検索を続ける中で、Twitterで相互フォローになってくれる人が何人か現れ、それは次第に増えていきました。私は当時から『ぼっち侵略』のことを頻繁に呟いていたように記憶していますし、フォロワーと交流するときの話題は専ら『ぼっち侵略』でした。そうする中で、今度は『ぼっち侵略』を読んでいない人も私をフォローするようになりました。
◆空回るフォロワーとの会話
ある程度フォロワーが増えてきた頃、私は新たな課題に直面します。『ぼっち侵略』読者と知り合えたことそれ自体は喜ばしいのですが、困ったことに誰が私よりも「詳しい」人なのかさっぱり分からないのです。そこで私は、まず特に親しいフォロワーさんとSkypeで『ぼっち侵略』の話をすることにしました。ツイートよりも実際に話をする方が話が分かると思ったからです。
早速Skypeをしたいとリプライを送ってみると、何人かの方々が提案に応じてくれました。私は嬉々として通話を始めたわけですが……問題はその内容でした。
初めてルーズリーフに感想を書きなぐった頃からしばらく経ち、私も1巻の内容についてはある程度整理がついていました。ところが私は、その時点でもいまだに「これがこういう作品と似ている」だの具体的な描写の解説だのといった部分的な話しかできず、そうした発見以外は全く進歩がないままだったのです。
恐らくですが、私とSkypeをした人たちは、私が「この作品のここが面白い! 大好き!」とか「これはこういう作品だと思うんですよね!」と言うと思っていたのではないかと思うのですが、私はただ「このシーンはこういう描写ですね」とか「ここはこれのオマージュですね」というようなことしか言わなかったし、言えなかったのです。
そんな状態のままSkypeに特攻した私に帰ってきた反応は、基本的には「それで?」といったようなものでした。勿論当時の私はそれ以上のことを考えていたわけではなかったので、私はそれに対して返答することができませんでした。また、そもそも私の狙いは「これらの情報を与えることによって相手が自分より『ぼっち侵略』に「詳しい」のか見極めたい」というものだったので、「私の方こそ、反応を窺いたい」とすら思っていました。当然気まずくなります。そもそもいきなり凄まじい勢いで話し始めている時点で引いていた人もいたと思います。
多くのSkype通話を経ても結局、『ぼっち侵略』について私より「「詳しい」人は中々見つかりませんでした。
ともあれ、曲がりなりにもSkypeでいろんな人と通話したおかげでTwitterでの交流は次第に円滑になっていきましたが、私の知らなかったこと、分からなかったことを教えてくれる人は一人もいなかったのです。
その状況を当時の私がどう思っていたかと言えば、
「まぁ……残念だけどいいかぁー。フォロワーさんに『ぼっち侵略』の話ができるだけで楽しいし!」
といった感じで、自分のやり方がまずいのではないか、読み方に欠陥があるのではないかということに私はさっぱり気づいていませんでした。「さいむさんは結局そこからどう思ったの?」と丁寧に質問をしてくれるフォロワーもいたのですが、その質問の意味自体をよく理解できていなかったのです。
この致命的なズレはその後約2年も続くことになります。その分気づいたときのショックも大変大きかったのですが、それはまた別の機会に書きましょう。
◆アニメ批評界隈との接触
一方この頃、フォロワーが増えていく中で私は興味深い人々と接触することになりました。主にアニメについて語り、論じることをTwitterでの主な活動とされていた人達です。当時の私が特に驚いたのは、その人達がアニメについて考えたことを同人誌にまとめて発表していたことでした。ここでは仮にそういった人達の集まりことをアニメ批評界隈と呼ばせていただきます(※2)。
そうしたアニメ批評界隈の人達と出会って私は驚愕し、また喜びました。具体的に言えば、それは「作品についてこうやって緻密に詳細に語る手段というものがあるんだ!」という驚きと、「この人達の中になら『ぼっち侵略』について私より詳しい人がきっといるはず!」という期待でした。こうして私は早速アニメ批評界隈の人達との交流を開始します。
アニメ批評界隈での作品の語り方は、当時の私にとって新鮮で多様性に満ちていました。私自身アニメをそこそこ見ていたこともあり、アニメ批評界隈で取り上げられる作品の話にも多少ついていくことができたため、フォロワーになってくれる人も少しずつ増えていきました。
ただ、アニメ批評界隈において『ぼっち侵略』の読者はごく少数でした。このこともあって、私は『ぼっち侵略』を人に勧める、布教する目的を主として動き始めることになります。Skypeでの『ぼっち侵略』語りやアニメ批評界隈での作品語りとの接触、そしてアニメ批評界隈の人達への宣伝や布教を通して、私は少しずつ他者に『ぼっち侵略』という作品とその説明を届けようという姿勢を(やっと)持ち始めました。勿論、先述した通りその内実は目も当てられないものでしたが、それでも自分が『ぼっち侵略』について語るとき、目の前には他者がいるんだということを私はようやくここで感覚的に理解し始めたのです。
しかし、今まで『ぼっち侵略』と「さいむ」しかいなかった空間に登場した他者を、私は必然的に持て余すことになります。『ぼっち侵略』単体でさえ持て余しているのに、『ぼっち侵略』のために生まれた「さいむ」は他者とどう向き合えばいいのか。苦渋と失敗に満ちた試行錯誤が、以後続いていくことになります。
◆予想していた「完結」と、予想できなかった「終わり」
さて、今回の記事はおおよそ2013年上半期のことを記事にしていますが、その当時も私は大学の友人と毎日のように『ぼっち侵略』の話を(大体一方的に)していました。そんな中、私は3巻が発売されてしばらく経った頃に、私はこの漫画は一体何巻で終わるのか予想をたてることにしました。勿論当時は打ち切りの可能性もありましたが、仮にそれがなかったものと仮定し、作中での時間の進み方や登場人物の設定を考慮して私が出した結論は、
「『ひとりぼっちの地球侵略』は12巻、長くても15巻までには完結する」
というものでした。流石に細部の予想までは当たっていなかったものの、本当に15巻で終わったことについては現在の私もとても驚いています。ただし、当時の私はその作品完結予想を、作品がやるべきことを成し遂げた、素晴らしいこととしか考えていませんでした。『ぼっち侵略』が完結するということ、それが「さいむ」という、ただ『ぼっち侵略』を追い続けるためだけに作られた存在に何をもたらしてしまうのか、このときはまだ考えもしなかったのです。(続)
【注釈】
(※1)
G・K・チェスタトンが1905年に発表した長編小説。私が読んでいたのは光文社古典新訳文庫版でした。
(※2)
もちろん人間関係やそれぞれの専門分野等の事情によりこのようなまとめ方が乱雑であることは重々承知していますが、当時の私の視野の狭さに準拠して敢えてこの呼び方をしばらく用いさせていただきます。ご了承ください。
次回:【第3回】出来たら配信!気が向いたら執筆!(私が『ひとりぼっちの地球侵略』と共に辿り着いた「コンテンツ」の限界)
[記事作成者:さいむ]
緑の人。ひょえー